« 河内氏「尖閣列島漁船衝突事件・続続」への反論―再び国家について | トップページ | 前田朗氏への返信―国際法に対する3つの立場・再論 »

2010年10月29日 (金)

「尖閣列島漁船衝突事件」―国際法に対する3つの立場について

前田朗氏はこの間の「尖閣列島漁船衝突事件」のMLでの議論に関し、極めて冷静かつスマートな対応をされていた。例えば「私は、領土問題にはさして関心がありません。私の関心は、『領土ナショナリズム』『民族ナショナリズム』がいかに形成されるか、いかに国際問題を引き起こすかという点です」、と。好感をもてるスタンスではあったが、いくぶん不満もあった。ところが1017日、阿部浩己氏の新刊『国際法の暴力を越えて』を紹介する形で、積極的な主張を行われている。本件の議論がますます「混迷」「分散」してきているなか、タイムリーな問題提起だったと思う。少し時間が経ってしまったが、新たな視覚からの提起をうけて問題の構図の整理をおこない、私たちの国際連帯運動の方向を考えてみたい。

 結論から先に言うと、いま3つの国際法・国際主義に対するスタンスが出そろったということである。

それは以下のようだ。

①(河内さん)国際法で定着した「先占」論を柱に尖閣列島が日本の領土であると強調し、中国を批判する国家主義に陥りがちな立場

②(前田さん、または阿部さん)国家を主体とした国際法が反民衆的と認めつつ、「第三世界」など「他者」の登場を媒介にしてその「建前」を利用し、機能主義的な利用を図って国際法の転質をはかる

③(筆者)帝国主義的な国際法を批判し、国際法の主体である国家を死滅させることを目指して領土・国民といった分断支配を打破する

●前田さんのラブコール――阿部さんとの微妙な差異と同一性

 前田さんはBlog『国際法の暴力を越えて』を紹介し(続編があるようだ)、「待望の1冊です」と絶賛している。詳細はBlogを見ていただくとして、どうやらその結論は下記のように思える。すなわち「国境を越えるためには、国家や国民というイデオロギーそのものを思想的に越えなければならない。・・・それは国民国家の只中で『非国民』として生きることを自らに課す思想闘争の彼方にはじめて立ち現れる課題であろう」(同Blogの「国家を下から越える思想を」0612月)。簡単にいえば、個人の思想の問題として「非国民」であることを課し、それが国家や国民というイデオロギーを越える前提だと言われているのである。この立場はフランス革命後、政府が自由・平等・博愛の旗のもとギルドや労働組合などあらゆる「中間団体」を廃止し、個人が絶対主義的な国家と裸で向き合った歴史を想起させる(注1)。すなわち前田さんは個人・対・国家の枠組みで、孤立無援、一人ひとりがこのような覚悟を固めないと国家・国民といった近代の分断支配を越えられない、と言われているのである。

 それに対し阿部さんは少し違う。前田さんが紹介する『国際法の暴力を越えて』は少々高価(3,360円)なので、おおむね同じような主張が行われていると思える新書版の本から引用しよう(注2)。

①国際法の観点からいえば、戦争を克服することは、本当はいとも簡単なことである。国際法を守ればよい・・・国際法は戦争を認めていない。戦争は違法なのだ。それどころか、国際法は、紛争の原因となりうるさまざまな社会的不正義を各種の条約や制度を通じて除去しようとしている

②国際法の正当性を最終的に支えているのは・・・・人間たちの信頼なのであり、その信頼を根底から覆すような振る舞いに政府が出るとき、市民・民衆は直接に行動を・・・起こすべきである

③イラク国際戦犯民衆法廷・・・非暴力直接行動の一形態として国際法の定立・実現過程に市民・民衆がかってないほど積極的に参画しつつあることの現れとみることもできる

④ここで私が述べていることは、日本国憲法の平和主義の引き写しでもある(順序は一部、変更)

 上記の引用と『国際法の暴力を越えて』との違いは、「第二部 召喚される他者――女性、第三世界、

民衆、歴史」の観点の追加であろう。そのような「他者」が、例えば「歴史」=戦後補償裁判などの介

入によって、「国際法は暴力から自由な社会の構築に真に貢献できるものとなっていくのだろう」という

楽観的な見通しが語られている

 そのような阿部さんの見解に対し、前田さんは以下のように賛意を表明している。「国際法を単純

に否定すれば、赤裸々な暴力支配に道を開くことにしかならない・・・国際法の機能(!)を転換

させること、国際法の内実に『南』を織り込み、『南』による国際法に作り変えていくことが目指さ

れます」、と。ここでお二人の差異が現れる。というのは、阿部さんは「南」などの言葉が象徴的で

はあれ、その実態としての民衆と運動と連帯関係が想定されている。氏自身、「イラク国際戦犯法廷」

の運動で裁判長を務められた。対して前田さんは、先に引用した通り「主体性」論者である。ただ、

より重要なことは、お二人とも国際法を「機能」的にとらえていることである。

●国際法の、従って国家の機能主義的な理解に反対する

 私は国際法の、従ってその主体である国家の機能主義的な理解に反対する。それは歴史的には、帝国主義は選択可能な「政策」なのか、資本主義の「本質」的な歴史的趨勢なのかというレーニンの時代の論争に似ている。また国家は、「政策」を実施する政府なのか、権力「実体」なのかという議論にも通じる。もちろん私は、「イラクに派兵された自衛隊は国際法的には戦闘部隊だ」と主張し、慰安婦問題の運動のなかでは「国連の決議を守れ」とシュプレヒコールを上げるだろう。運動の一局面においては、国際法をタテにとった行動が必要かつ有効だろう。だがそれと、国家とともに国際法を葬るというスタンスを持たなければ真の国際連帯を勝ち取れない、という私の主張とは全く矛盾しない。逆にそのスタンスでなければ、国際法を「機能的に転換させる」という幻想によって、国家―国境―国際社会という枠組みに足をすくわれるだろう。この「足をすくわれる」ということは、前田さんが嫌う、この間の民主党から小沢に乗り換える際限のない幻想に満ちたな論争に顕著である。「政権以外はなにも変わらなかった」(注4)という了解にこそ、「思想闘争」が求められているのである。

 振り返ってみるとよい。阿部さんは先の新書で「ここで私が述べていることは、日本国憲法の平

和主義の引き写しでもある」と言われているが、戦争の克服を目指したのは何も日本国憲法が最初

ではない。1899年と1907年のハーグ平和会議は侵略戦争に反対した。また1928年のパリ不戦条

約は、憲法9条前段と同じ戦争放棄を盟約した。しかし第一次世界大戦と第二次世界大戦が起こっ

た。その反省に立ったという国連が朝鮮戦争の主体になり、また国連決議を無視して米英がイラク

占領に向けた戦争を開始したのである。だからといって私たちは決して反戦闘争に悲観的になりは

しないし、反面、国際法や国連に幻想を持たないだろう。なぜなら、日本の9条が戦後処理のなか

で安保―沖縄との関係においてのみ成立したことを冷静にふりかえり、その構造への闘いがなけれ

ばお題目となった「9条」が無意味化することを理解しているからである。国家や「国際社会」へ

の批判と切り離して国際法を機能的に扱うことは、「憲法9条」を掲げた平和運動と同じ危険性を持

っている。

●国際法に対する3つの立場について

 冒頭、国際法に対する河内さん、前田/阿部さん、そして筆者のスタンスを整理した。そこから何が出てきただろうか?

河内さんの説は、おそらく国家主義・民族主義に国際法による理論的根拠を与え、国家の強化と、国家が日中の民衆の連帯を分断する結果になるだろう。河内さんの法律家としての所論を越えた「思惑」は推測不能だが、氏の中国民衆の民権に寄り添った調査や報告の活動が、スジをたがえないことを望むばかりである。

また前田/阿部さんの主張は、この間の「女性、第三世界、民衆、過去」をめぐる運動を国際法との関係で位置付ける意味をもった。ただそれは、国際法の転換のために闘われたのではなく、直接にそれぞれの要求の実現、許されない状況の打破、そしてグローバルな民衆の連帯のために展開されたのである。手段と目的の関係を逆転してはならない。また、それらの運動を国際法の転換に「収斂」させることは、たとえよりましな国家―国連(国際社会)―国際法が実現されたとしても、民衆を新たな国家の枠組みに「回収」することになりかねない。「機能と実体」とも言うべき関係のなかで、議論を再整理される必要があるのではないだろうか?

私の立場は繰り返さない。ただ今回の「尖閣列島漁船衝突事件」は歴史的エポックになりかねない危険性があり、国家をめぐり構図を整理した生産的な議論が必要だと思っている。その点では前田さんの問題提起は貴重であった。私たちは国際的な民衆連帯の立場を堅持し、国家主義・排外主義に傾きがちな日中の民衆に語りかけ、そして目に見える形で私たちの運動を展開していく必要があるだろう。

(注1)私のBlogの「歴史夜話=資本主義500年、若き労働者の闘いの記憶(1)」参照

(注2)『戦争の克服』(集英社新書、720円+税。阿部浩己、鵜飼哲、森巣博の対談集で、阿部さんの短くまとまった主張は「あとがき 希望に支えられた実践を」にある。そこから引用する)

(注3)最終判決は20053月に東京で言い渡された。当然ながら国際法違反を認定し、米英の謝罪と補償を要求するものだった

(注4)私のBlog の「歴史夜話=資本主義500年、若き労働者の闘いの記憶(2)」参照。1830年革命後のフランス労働者の言葉である。以後、労働者の団結を求める活動が本格的に進み、1848年革命に向かうことになる

« 河内氏「尖閣列島漁船衝突事件・続続」への反論―再び国家について | トップページ | 前田朗氏への返信―国際法に対する3つの立場・再論 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「尖閣列島漁船衝突事件」―国際法に対する3つの立場について:

« 河内氏「尖閣列島漁船衝突事件・続続」への反論―再び国家について | トップページ | 前田朗氏への返信―国際法に対する3つの立場・再論 »