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2010年11月 8日 (月)

歴史夜話=資本主義500年、若き労働者の闘いの記憶(4)

前回、ドイツの社会主義と労働組合に話を進めると述べたが、比較して検討するため資本主義の「母国」イギリスの状況を一瞥してみたい(注1)。

 イングランドとウエールズの人口の増大と、イングランド北部ニューカッスルの石炭生産量のグラフは傾きが一致するのだという。従来の風車や水車を動力源とするイギリスの工業は、採炭とそれを燃料とする蒸気機関の採用で爆発的に発展し、それに比例する人口増をもたらした。18世紀の産業革命である。イギリスの採炭量は1850年代、全世界の80%を占めたといい、まさに世界の工場となった。エンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845年初版)を書いたマンチェスターも、1760年に17,000人だった人口が、1850年には周辺部を含め100万人を越えた。

 そこで今回の話は、マンチェスター周辺の労働者の闘いから始まる。

Ⅹ)ヨーマンリー(地主)の騎兵隊に蹴散らされた6万人の集会

 

1819816日のことだ。この日、約6万人の労働者が急進改革派のヘンリー・ハントの演説を聞こうと、セント・ピーター広場に結集した。壇上の人々が持つ旗には、「普通選挙権」「自由と組織」「団結強化」「改革」などと書かれていた。おそろいの白いドレスを着た織物工の女性たちがかかげるスローガンは「大地の親愛なる姉妹たちよ、男たちとともに団結して闘おう」で、旗の絵は古代伝説の「織り姫」の像だった。参加者のほぼ4分の1が女性たちだったという。一方、マンチェスターの治安判事は急仕立ての400人弱の特別警察部隊のほか、ピット首相が王党派の地主たちに作らせた「ヨーマンリー騎馬部隊」1,500騎を用意していた。ハントが演説を始めた瞬間、騎兵が群衆に襲いかかった。馬で踏みつぶし、サーベルで切りかかり、そしてハントを逮捕したのである。この日の死者は11名、負傷者は男女合わせて630人にのぼった。そのうち織物工が4分の1だった。彼ら/彼女らは家内工業の職人たちで、もっとも劣悪な労働条件下にあり、187月には2万人が賃上げストライキに決起していた。次に多かったのはレイバラーズ(日雇い農業労働者)で、18世紀の「囲い込み運動」で土地を奪われ、農繁期を除く期間、仕事のない人々だった(注2)。

それより前、機械化にともなう賃金低下に対し12年には、ヨークシャーとランカシャー地方では大規模なラダイト(工場焼き打ち、機械打ち壊し)運動が起こっていた。同年、ロンドンでは増税に反対するハムデン・クラブが結成された。15年にはフランス革命への介入戦争が終わり、戦争景気が終わって経済不況と増税、物価の高騰が民衆の生活を直撃する。マンチェスターでもハムデン・クラブ員が17,000人に達し、人民からの国会議員選出、それによる増税阻止を目指した。173月、マンチェスターのハムデン・クラブはロンドンまでの請願行進を計画した。しかし56,000人の請願行進の出発は軍隊によって阻止され、ようやく300人ほどがロンドンに向かったが、軍隊の追撃によってたどり着けたのは1人だけだったという。この急進改革運動はフランス革命に影響されながら、労働者の力を背景に普通選挙権の獲得を目指したが、19年のピーター広場の虐殺事件後の弾圧で衰退に向かわざるをえなかった。

それを引き継いだのがチャーティスト運動である。その背景は、32年の選挙法改正も34年の新救貧法も労働者の期待を裏切るものだったからである。新救貧法は、1601年以来の旧法が慈善事業に傾いていたのに対し、生活手段の給付はすべて廃止された。貧民を「バスチーユ牢獄」とも呼ばれた「貧民作業所」に収容し、最も劣悪な生活と無意味な「労働」を強制し、原則的に外部との接触も禁止した。反抗する者は「踏み車」の罰を受けた(注2)。そこから脱出できた人には餓死が待っていた(注3)。この「貧民作業所」の実態、そこに現わされたプロレタリアートとブルジョアジーの非和解的な対立関係は、再び労働者を急進派との協定によるチャーティスト運動に向かわせることになる。自由主義ブルジョアジーは、チャーター(憲章)と抱き合わせで穀物関税の撤廃(穀物法成立)を狙い、労働者の力を利用しようとしていた。36年に「ロンドン労働者協会」が作成し、37年に急進派国会議員らと成文化したチャーターの内容は以下のようである(カッコ内は当時)。

21歳以上のすべての男子による普通選挙(⇔多額納税者による選挙)

②秘密の無記名投票(⇔多額納税者の記名投票)

③貧民でも選挙に立候補できるような財産資格制度の廃止(⇔事実上、大土地所有者の議員)

④貧民でも議員として活動出来るような議員への歳費支出(⇔議員は名誉職かつ利権の権原)

⑤有権者に比例した議員定数、小選挙区に代える大選挙区(⇔大地主のテリトリーに対応)

⑥年次選挙(⇔当時の内閣は議会を閉会、選挙を行わず、「独裁制」をひいて利権を漁った)

ⅩⅠ)チャーティスト運動後、労働組合建設の闘い

 

イギリスのパブは「アームズ(仕事の腕)」と名乗るものが多く、例えばカーペンター・アームズは大工たちが仕事の情報交換をおこなう溜まり場で、事実上それが労働組合のはじまりだという。だがそれは、「結社禁止法」によって秘密クラブでしかなく、24年に同法は撤回されたが、翌年にはストやオルグ活動を禁止する新法が作られている。賃金交渉と組合の存在だけが合法で、ストが犯罪でなくなるのは1875年を待たねばならなかった。公然たる労働組合は31年結成の炭鉱夫組合が最初で、ストライキは軍隊によって弾圧されたが、少年鉱夫の12時間労働を実現させている。

そのご彼らはチャーティスト運動に合流した。この運動は1839年、当時のイングランドとスコットランドの人口の約10%、128万名の国民請願書に結実したが、7月議会で賛成46、反対235で否決されてしまう。41年には350万の署名を集め、労働者はマンチェスターを中心にゼネストを貫徹する(注5)。これが政治運動のピークであった。急進派=自由主義ブルジョアジーとの関係も冷却し、イギリス労働者は独自な運動と組織の建設に向かう。「政治権力はわが手段、社会的幸福こそわが目的」が新たなスローガンであった。それは社会変革をめざすものであったが、同時に経済主義に運動を絞り込むものであったかもしれない。またスコットランドやアイルランドなど、イングランドによる差別や植民地支配に苦しんだ地域から、多くの労働者が新大陸に移民したことが運動の弱体化をまねいた。マルクスらがロンドンで『共産党宣言』を出すのは1848年のことだが、実際にイギリス労働者に大きな影響力を持ったのは、主に労働者教育や社会調査にとりくみ、漸進的戦術をとったフェビアン協会であった。また協同組合運動を展開し、「労働紙幣」を提唱したオーエンの影響も無視できない。フェビアン協会や独立労働党が合流し、労働党が設立されたのは1906年のことである。

その間もイギリスの工業化は進行した。ただし綿の機械紡績に占める世界シェアは35年の63%から46年の48%に下がり、完全な独占状態は崩れる。しだいに造船・機械工業などに移行するのだが、45年の「機械輸出禁止法」撤廃は欧州各国の工業の伸長を促進した。むしろ大陸の国々が、軽工業に依存するイギリスを重化学工業で凌駕する事態が、世紀末を挟んで起こることになる。

こうしてドイツの労働運動は、フランス2月革命と全欧の3月革命の敗北をひきつぎ、イギリスに発する産業革命の波及と労働組合運動の影響をもうけながら展開されていくことになる。【続く】

(注1)ここでは主に、剣持一巳『イギリス産業革命の旅』(日本評論社、1993年)と、エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』(新日本出版社、2000年)を参照する

(注2)レイバラーズはもともと小作農だったが、村の共有地(コモン・ランド)で薪を拾い、家庭菜園を作ってなんとか生活していた。耕作形態が変わり、共有地を囲い込まれて日雇い農業労働では食っていけず、都市に流入した。「コモンズ」という言葉の由来である

(注31日中、水車のような足踏み車をコマネズミのように踏み続ける刑。後に中庭を1日中ぐるぐる歩かせる刑に変わったが、無意味さと過労で労働者の生きる意志を損なうものだった

(注4)「貧民作業所」はマルサス『人口論』の思想を体現したものだ。その第2版では以下のように述べた。「貧民は自然の饗宴にきてみても、自分たちの空席がないことに気づく。そして自然は彼に行ってしまえと命ずる。『なぜなら彼は生まれてくる前に、社会が彼をうけいれる気があるかどうかを、あらかじめ、たずねなかったからである』」(エンゲルス『状態』から重引)。

(注5)エンゲルスはこれを、資本家とスパイによって「追い込まれた」蜂起と言っている(同前)

印刷用:「Proretarian_D.doc」をダウンロード

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