BI論批判―立岩真也+齊藤拓『BI 分配する最小国家の可能性』
ベーシック・インカム(以下、BIと略)を論ずる人々は多い。立岩真也+齊藤拓『BI分配する最小国家の可能性』(青土社)で齊藤が「日本のBIをめぐる言説」を紹介しているが、それだけで論者は50人にのぼる。これは基本的には、BIが社会政策=分配に属することで、所有関係に規定されるにもかかわらず、それを論じないのが暗黙の「約束事」になっているからだ。「原理」のない議論は、財源、妥当な給付額、それが与える社会的なインパクト(労働へのインセンティブ)などのバリエーション、その良いとこ取りのマトリクスへと果てしなく広がらざるをえない(注1)。
同書のなかで齊藤拓は「政治哲学的理念としてのベーシックインカム」を書いているが、それは「今のところ最も精緻な『理念としての』BI論であると評される、ベルギーの政治哲学者フィリップ・ヴァン・パリースによるBI正当化論」(P191)の紹介である。パリース(および齊藤)の理念は、「市場原理主義的かつ個人主義的でありながらも大きな再分配を厭わない」(P252)というものだ。「市場原理主義的」だからと言って、とりあえず忌避する理由はない。むしろ「理念」を明確にし、資本主義のロジックの上でBIを論じているから、それへの批判によりBIの運動の意義と限界を明確にすることができるだろう。
●自然や歴史のギフト、ギフトの占有を許すジョブという地位
パーリスの基本的な概念は「ギフト」と「ジョブ」である。まずギフトは、ロックの「自然の共同所有」の解釈に由来するという。各人は自分が貢献した生産物に対して所有権を持つとしたが、裏返せば総生産物のうち「自然」の貢献によるもの、すなわちギフトは集合的決定による分配を許すことになる。「自然」の共同所有の定義、もたらしたものの程度、分配の構想によって諸説が生まれる。パーリスは「自然」に、資本や技術など歴史的・社会的に形成されたもの、個人の学歴等を規定する家庭環境なども含めているようだ。そこでBIは再分配の手段の一つと位置づけられる。
そしてジョブ(直訳すれば職務)は、それを獲得・占有するためのギフトにどれだけ恵まれてきたかを凝縮的に示すという。ジョブ間の給与の差は、ギフトの差を示すということだ。また「資産としてのジョブ」とは、「ある種の社会関係資本として理解すべきであり、『社会的財産』―・・・自然および先行世代からの様々の『ギフト』の混交物・・・―から受益するための地位」(P202)でもある。齊藤の例示はポイントを突いている。「ノウハウは誰もが無料に近い値段で知ることはできるが、それを活用するには生産手段や労働者をまとめる組織を所有している必要があるし、それによって実現した産出増大の一部を占有する―給料をもらう―ためにはその生産手段を所有している組織に属している必要がある」(同上)、と。まさに資本主義的な生産と、所有―分配の様式そのものである。
ここまでで大半の問題はすでに示されている。ロックの「自然」なるものは中世末期の「共有地=コモンズ」を想定していたのかも知れない。生産と生活に必須だった共有地を囲い込まれた農民たちは、都市プロレタリアートとして資本家に労働力を売り続けなければ生きていけなくなる。資本家は、生産手段を所有していることによって労働者を搾取し、資本蓄積を拡大し、また自然そのものを資本の追加的部分として取り込みつづけてきたのである。資本主義500年の今日、「自然」は資本そのものである。とすれば資本はギフト以外ではない。また「ジョブ資産」の差なるものも、階級社会の中で一定部分の労働者に高い労働力再生産の費用が割り当てられ、社会的に「能力」の偏在が作りだされた結果にすぎない。上位と下位の労働者グループの収入の差異は、やはりギフトということになる。
それではどの程度のギフトやジョブ資産の差が存在しているのだろうか? 第1に日本では、法人である企業の表向きの資本金総額はおよそ139兆円(注2)、金融・保険業を除く資本金10億円以上の大企業だけで、内部保留は233兆円(注3)である。この合計が「純資産」で、少なくとも合計372兆円(GDPのほほ75%)にのぼる。第2に06年のNDP(Net Domestic Product 国内純生産、注4)に基づいて剰余価値率を計算すると、下表のとおり51%程度で、134兆円が搾取されたことになる。資本が歴史的・社会的に形成された第2の「自然」だとすると、この134兆円は当然「集合的決定による分配」に供されねばならない。なお第3に、日本の民間労働者の平均年収をみると、下位21%の労働者は平均161万円、上位11%の労働者(年収800万円超)の平均は1719万円、全体の平均は430万円程度だ。この差異がまさに「ジョブ資産」の意味するものである。ただし当然ながらこの差異は、最大限の徴税と再分配を行ったとしても430万円に平準化(下位21%の人は270万円/年、22.5万円/月のアップ)されるだけで、決して総額が増大するわけではない。
GDP(兆円) |
NDP(兆円) |
価値区分 |
剰余価値率 | |
企業所得・財産所得 |
93.5 |
134.0 |
剰余価値(A) |
A/B×100 =51.1% |
税マイナス補助金 |
40.5 | |||
雇用者報酬 |
262.6 |
262.6 |
賃金(B) | |
固定資産損耗(注4) |
106.0 |
- |
| |
計(付加価値) |
502.6 |
396.6 |
●パーリス=齊藤の「欺瞞」と、BI 論者の「遠慮」
こうしてみると、齊藤(=パーリス)のいう「最大限に分配する最小国家」(P250)の欺瞞が明らかになってくる。パーリスは、形式的自由の保護(治安維持など)とUD基準の達成(=公正な機会の平等)を「制約条件」としつつ、1人当たりBI (現金部分)を最大化することを制度構想として定式化した(P244)。だが上記と同じように「正負の所得税」の考え方で計算すると、その意味が明確になる。「所得」をベースにする限り、累進課税を最大化(平均年収以上は全額徴収)し、2つの「制約条件」を最小化しても、実現できるのは全給与所得者が年収の平均値430万円を受け取るということ以上にはならない。BIの「財源」論の限界だ。給与所得者以外を計算に加えたとしても、平均値がいくらか上下するだけであろう。確かに下位21%の労働者はメリットが最大で、4人家族なら1人当たり56,000円/月をBI として受け取ることにはなる。さらに法人税を40%とすれば14兆円の財源が加わるが(注2)、国民1人当たり9,000円、合計で65,000円がMax値ということになる。大きな抵抗が予想され、かつ究極の効果がこのレベルだとすると、BIを論ずること自体の意義が問われるかもしれない。
しかもパーリスは大急ぎで「最大限」の分配について言い訳を始める。UD(Undominated Diversity、P246)基準とは、誰が見てもおかしいと思う平等のキズ(格差・障がいなど)を是正するというものだ。それは累進課税に反対する人々の「道徳」に訴える一方、制約条件としてのUD基準によって、最も貧しい人々にも「禁欲」を訴える論理になっている。パーリスの制度構想の効果は「実質的自由のレキシミン化(差異の最小化)」だと訴えるのだが、それは完全な平等を意味しない。逆にそれは、「資本主義の動態的効率性を手放すことなく、そのうえで、本質的に(機会の)不平等を前提とする資本主義というものを正当化ならしめる」(P211)というのである。その他、現金支給が良いのか「ニーズ」に応えるのが良いのか等、結局は適正配分が良いといった結論にしかならない、つまらない議論に迷い込む。齊藤も「原理的にBIを擁護するにはおそらく個人主義道徳を貫徹する必要がある」と、同じ逃げ道をたどる。そして「原理」論の「道徳」論への転換は、社会的(=階級的)抵抗の大きさとBIの効果の小ささへの、自信のなさに由来すると見なければならない。
これを打開する道は何なのだろうか? もう一度「原理」に立ち戻ることである。先ほど見たとおり、今日の「自然」である資本は、実質(注4の計算によれば)1,083兆円にのぼる。また資本家が生産手段を私有していることによって受け取る剰余価値は134兆円だった(13%の高い収益率)。この生産手段を社会化し、剰余価値の搾取をなくせば、給与生活者の平均年収は430万円から650万円に上昇するだろう。下位労働者グループの4人家族が受け取るBI(負の所得税)は、270万円から490万円に跳ね上がる。ところで私はなにもBIの支給金額の増大のため、おせっかいな計算をしているのではない。そうではなくて、どうしてこのような計算をBI論者が行わないのだろうかと、不思議でしかたがないのである。これは「分配」を論じるにしても、給与・賃金の再分配ではなく、なぜ生産手段の分配を論じないのか、ということだ。 議会で「正義」や「道徳」を論じ、「労働のフレキシビリティ」などのおためごかしを言って、430万円以上の収入のある50.5%の給与生活者を説得するより、よほど健康で簡単なことのように思える。このような議論のオプションンもあって当然と思うが、どうだろうか?
●国家による分配への依存と、国際主義的な観点の欠如
生産手段の分配を論じないこととともに、BI論者の致命的な問題の二つ目は、国家による分配を前提にし、従ってグローバルな視野がすっかり失われていることだ。(注1)で紹介した文章ででも私は、「支給金額に関しても、せめてグローバルなBIはいくらであるべきか、といった観点で議論したいものである」と述べた。答を言おう。全世界のGDPはおおむね5,000兆円(注5)、人口は60億人、従って剰余価値をそっくり取り返すなら1人当たり年額83万円である。4人家族とすれば332万円だ。これは日本社会でみても、苦しいながら、なんとかやりくりできる金額ではないだろうか? 1日2$以下で暮らす労働人口が世界の半数にのぼる(注6)ことを考えれば、予想外の数字であり、それだけ支配階級と「先進国」住民に富が収奪され独占されていることを示している。BI論者がこのことを指摘せず、BIの金額を83万円との差額(1日2ドルなら年収7万円、従って76万円/年のBI)と主張しないならば、日本という「国家」による「国民」への分配しか視野にないことを示している。
そのことによる失敗は、18世紀後半のドイツ社民党に実例がある(注7)。ビスマルクの「社会政策」に取り込まれた社民党は国家主義的なスタンスを強め、帝国主義戦争(第一次世界大戦)の戦時公債に賛成票を投じ、戦後革命をつぶし、ついにはナチスの登場を許してしまったのである。今日、新自由主義経済に福祉国家論で対抗しようとする勢力もある。これはアメリカと対抗しつつアフリカ等の「後進国」から収奪した富を分配し、国内で一国的に階級対立を緩和するもの、と言われる面もある。マグレブ諸国に対するフランスの関係を思いかえせばよい。いわば究極の資本主義延命策である。私は(注1)の紹介で断った通り、BI論はまだまだ階級闘争に豊かな示唆を与えうる有効な「実験」だと思っている。実際にパリースは、「自然」の理解と「ギフト」や「ジョブ」の概念によって、「資本主義の正当化論」ではなく生産手段の社会的所有、階級と国家の廃絶、搾取の廃止の正当性に重要な示唆を与えてくれることになった。かつて労働価値説によって、マルクスに資本主義批判の武器を示唆したリカードのように。従ってBIを論じるとき私たちは、生産手段の分配とグローバルな分配について語り、そのなかで「労働の拒否」や「能力に応じて働き必要に応じて取る」といった概念を深めていかねばならない。そうすれば私たちは、BIを飛び越え、世界を獲得することができるかもしれない。
(注1)私のBlog 「ベーシック・インカムについて考える・・・PP研の講座から」参照。そこでBIをめぐる運動が有用な「実験」であることを認めつつ、白川真澄レポートをやんわり批判した
(注2)08年度の国税庁「法人企業の実態」調査結果。発表は、10年3月
(注3)08年度の財務省「法人企業統計」。資本剰余金81兆円、利益剰余金133兆円、引当金等19兆円。リーマンショック後の09年度でも244兆円へと5%増
(注4)固定資産損耗(償却費)とは、生産過程において設備等の「死んだ労働」の価値が「生きた労働」と結びつくことによって商品に「移転」された額を示すもので、決して「損耗」はしていない。また固定資産損耗は実際の資本総額の12.5%程度と言われており、逆算すれば総額は850兆円程度だろう。とすると償却費の106兆円は、8年で資本がすっかり更新されることを意味する。仮に850兆円が資本家の「倹約」など誰の助けもかりない努力で捻出されたとしても、それは労働者の力によってすでに何十回も償却されている。資本主義500年の今日、資本が「自然」は資本であることの根拠はここにある。
ちなみに剰余価値率をNDPで計算したのは、「移転」されただけの償却費を除外する必要があるからだ
(注5)貨幣で計算される市場経済化された財とサービスだけの数字で、非資本主義的なそれはかなり大きいと思われる。他方、先のNDPでの計算と比べれば償却分で1,000億円程度、多すぎるかもしれない。ここでは非資本主義的な「価値」>1,000億円と考えて、ざっくり計算した
(注6)ILOの04~05年の統計による
(注7)私のBlog 「歴史夜話=資本主義500年、若き労働者の闘いの記憶(5)」参照
yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/500-4aa4.html
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