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2011年4月 9日 (土)

【書評】闘う科学者―久米三四郎『科学としての反原発』(七つ森書館)

福島原発の危機的な状況が続いている。それにともない政府・東電の情報統制と、でたらめな「情報」の垂れ流しがますます昂進している。いよいよ隠しきれないと、放射能被曝の基準値を変更して労働者を危険にさらす。対応が行き詰ると、事前アナウンスもなしに高度に汚染された水を海に流し、漁民の生活と健康を侵害する。一部の原発推進派の学者は、その言動を謝罪し、福島原発に「最悪の事態」が起こりうることを認めているという。だが問題は、難破船から逃げ出すネズミのような学者の「良心」を救うことではなく、「最悪の事態」をふくめ情報を洗いざらい公開することだ。生の、正確で、タイムリーな情報こそが求められている。

とはいえ情報、ひいては「科学」的であることが第一の問題なのか、という疑問を「311」以降ずっと持ち続けてきた。危機は長く続き、それをめぐる攻防の中で「震災後」「事故後」は、以前とまったく異なる社会・国家・世界になるのではないかと思った。新たな世界に向けて何をやりたいのか、何を要求するのかが第一で、そのための情報や科学的見地なのではないかと考えてきたのである。久米三四郎の『科学としての反原発』を読み、大きなヒントをもらった気がするので紹介したい。

●戦後の「科学」はどこから始まったのか―仁科芳雄の『世界』論文

その前に仁科芳雄の「原子力問題」(『世界』19471月号)という論文を参照する(注1)。仁科は戦後、理化学研究所の所長となり、46年に文化勲章を受けたほどの高名な研究者である。そして戦前はといえば、陸軍航空本部のもとで原子爆弾の開発を行った中心人物だ(注2)。そして論文では、ビキニ環礁での実験で確認されたアメリカの原爆の「威力」を仔細に紹介し、核兵器の国際的な管理の必要性を論じ、そして話は核の平和利用に及ぶ。いわく、「原子力はむしろ徐々に発生させることの方が、爆発させることよりも易しいのであるから、利用の可能性は多分に存在する」。問題は経済的に成り立つかだと言って、ウラン1Kgと石炭2000tとを比較してみせる。その利点は、「ウランは重量が少ないこと、動力発生の速度が自由に変えられ且つその制御が簡単なこと、また煙がまったくないこと」であるという。操作の安全性については、「心配は無用である。ボイラーの危険性は普通の工場と同様」と、太鼓判を押しさえしているのだ。誠実な研究者であり、湯川秀樹や朝永振一郎から頼りにされていたというから、嘘つきだったわけではない。「科学」や「技術」に対する批判精神のない「純粋」な研究者、底抜けの楽天主義者だったのであろう(注3)。

このような雰囲気は、戦後の科学者・技術者に共通するものだったのではないだろうか。敗戦直後の461月に民主主義科学者会議(民科)が発足するが、その名の通り主張は研究者と研究活動の民主化であり、「科学」それ自体の批判は念頭になかったようだ(注4)。民科を追うように49年、首相の所轄下に政府から独立して職務を行う「特別の機関」として、日本学術会議が設立される。そのもとに「原子力利用検討のための委員会」が設けられたのは53年のことだ。同じ年の12月末、国連総会でアメリカ大統領アイゼンハワーが原子力平和利用を提案する。これは米ソの核兵器開発競争のもと、二国間協定による原発燃料の提供を通じ、各国をアメリカ核戦略のもとに囲い込む狙いを持つものであった。その3ヶ月後、後の首相の中曽根議員が追加予算として原子力予算案を提出、それを通したのである。日本学術会議は、自主・民主・公開の「平和利用3原則」を提案、55年の「原子力基本法」に反映させる。しかしそれは、核兵器と米ソの核戦争戦略、そのもとでの「平和利用」の政治・軍事的な狙いを「平和利用3原則」で隠蔽する意味を持っていたと言わざるをえない(注5)。「自主」はそもそもアメリカの核兵器と原子力エネルギー戦略のもとにあることで、最初から無意味であった。「公開」はIAEAのウケはともかく、組織的な隠蔽とデマ宣伝というやり口が最初から横行していた。そして「民主」が「民主的科学者」の参画を意味していたとすれば、楽天的な「平和利用」の賛美になりかねなかった。

 

●伊方原発誘致反対共闘委員会と、全国原子力科学者連合の発足

この虚構を打ち破ろうとしたのが、いずれも69年に発足した伊方原発誘致反対共闘委員会(共闘委)と全国原子力科学者連合(全原連)である。四国電力は原発建設をめざしたが2つの候補地で反対運動が強く、697月、誘致運動を行っていた伊方町での建設計画を発表したのである。元町長を委員長にすえて共闘委が発足したのはその3ヶ月後だった。一方、大学闘争が全国的に拡大するなか、若手を中心とした原子力科学者が結びつきはじめる。春からの大学間交流、夏の合宿、そして11月の原子力学会でその体質を糾弾、その場で全原連の結成を宣言した。ビラには「原子力開発は誰のためにするのか」とあったという。全原連は以後、水戸・柏崎・熊野など各地を駆け回った(注6)。伊方での両者の結びつきのうえで、当時40代後半の久米は73年から30年にわたる「原発許可取り消し」の行政訴訟に参画していった。

久米が『科学としての反原発』のなかで特に強調していることは何だろうか? 皮肉に聞こえるかもしれないが、「反『科学』」としての反原発」ということである。89年の「科学者の社会的責任を考える集い」での講演で久米は、在籍した大阪大学で「戦時科学報国会」が作られ、戦争協力していったことがまだ解明されてないと述べている。また50年代の「国民の科学運動」、ビキニ事件の際の「大勢の人をおどかせばええ」というような「啓蒙活動」を反省している。ベトナム戦争の際には、「1ドルで何人殺せるかという計算」の上に立ったマクナマラ作戦、そこに科学者が動員されていったことに衝撃を受けたという。そのころ原発予定地の美浜を訪れ、「住民、つまり足を踏まれる人の立場に私たちが立たないかぎり、科学なり、技術というのは一般の人に受け入れられない、それは社会体制と関係がない」(P204)という考えを固めた。それは「いちばん大切な安全が問題というときに科学者としての興味、論理の整合性が優先していく。これはもう研究者の業(ごう)」(P210)という反省ともあいまったものであった。

そのうえで久米は、科学者として裁判闘争のなかで国や電力会社と対決していく。そこでのポイントは、①放射能の安全性には「しきい値」がない、②安全委員会の審査で「基本設計」だけを対象にして「詳細設計」をレヴューしないのはおかしい、③事故の際の組織的対処能力を審査しないのはおかしい、④事故が起こったとき「それがどこまで深刻化しうるか」という検証と対策がない、⑤事故後の他の原発での「安全性総点検」なるものは法に不適合――等々である。これらはいちいち、福島原発事故とその後の動きを批判する内容だ。①は、どんなに微量な放射能でも安全ではないということとともに、安全の「しきい値」がないシステムを存在させてはならないという主張だ(注7)。②については、福島原発の津波に対処する5m程度の防波堤は、安全を担保するための設計目標、「基本設計」さえもがおかしかったということになる(注8)。また③に関しては福島で、東電のみならず政府や原子力安全委員会までが、安全対処の組織的能力がなかったことを示した。

●まず闘いの方向を、そしてそのための科学や情報の利用を

久米三四郎は09年、83歳で亡くなられた。論文の提出を拒み、生涯一講師としてすごして大阪大学を退官した。その後「原子力資料センター」を設立し、「反原発運動全国連絡会」の結成や『反原発新聞』の発刊にたずさわった。今日、闘いの場を共有できないのは残念である。

久米は「足を踏まれる人の立場に立つ」と言った。立っただけではなく反原発の闘いをともに推進し、そのために科学と情報の力を利用した。「立場に立つ」というとき、私たちは「籠城してコミュニティを守る」と言った相馬市長、「廃炉」を要求した郡山市長、謝罪のない東電の見舞金を拒否した浪江町議会を思い返すべきだろう。その背後には、劣悪な「避難所」に閉じ込められる住民たちがいる。またすさまじい放射線の環境下で働く日雇い労働者、魚をとることも稲をつくることも禁じられる農漁民を忘れてはならない。そして福島原発がまきちらす放射能にさらされることになる世界の人々は、日本政府と東電を糾弾し、被災した人々にエールとカンパを送り、そしてドイツの25万人デモをはじめ原発の廃絶を目指して闘っている。

私たちは何よりもまず、政府・東電への要求事項を明確にして大衆的な力を結集していかねばならない。そしてそのポイントは、①広域避難、②福島原発の廃炉と全原発の廃止、③政府・東電による無制限の補償であろう。危機的な状況が予想される一方、政府が「自主的な避難」などと無責任な態度をとっていることに対し、コミュニティ・生活・健康・労働の保障をふくむ広域避難が必要だ。また一般的に「廃炉」を要求するだけでなく、政府が行った原発設置認可の取り消しを行わせ、責任を明確化させねばならない。そして東電の会社清算をはじめとする無制限の補償の要求については、前のBlog(注7)で述べたとおりだ。ちなみに95年の「もんじゅ」の事故に際し、当時の谷垣科学技術庁長官(現・自民党総裁)は「動燃」の解体を要求していた。東電にまず13兆円余の全資産を吐き出させ、清算させ、責任をとらせることは当然な要求なのである。

おそらく長期にわたる危機と破綻の時期、私たちは「災害後」「事故後」を見据えた主張を大胆にうちだし、闘いを大きく作りだしていきたい。

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(注1)「『世界』主要論文選1946-1995 戦後50年の現実と日本の選択」で読むことができる。この論文が「主要論文」のひとつに選ばれた理由を編集部に質問したい。自己批判的な意味があるのだろうか?

(注2)理化学研究所の「理研88年史」は原爆開発を、「若い物理学者たちを戦争で犬死させないために、仁科が打った『時代』とのギリギリの妥協か」と美化している

 http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/riken88/text/no88.html

(注3)仁科はラジウムの放射線の医学的効用さえ論じている。60年ごろ、悪性の腫瘍の治療のためラジウムをあごに埋め込まれた人を知っている。90年代にはあごや歯が無残に崩壊し、言語能力を失っていた

(注4)民科は共産党の引き回しで60年代前半までに崩壊した。65年には江口朴郎らの呼びかけで日本科学者会議が設立されたが、そこでは「エネルギー・原子力問題研究委員会」が設けられている

(注5)原子力基本法(551219日)―第二条(基本方針)原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。

(注6)全原連については、京大にいた荻野晃也の「原子力安全問題ゼミ」での懐古談がある

 http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/seminar/No93/ogino030516.htm

(注7)少し違うかもしれないが、工業製品は「公差」という性能確保のしきい値の集合であり、電気製品や自動車の保証目標はppm(百万分の一)オーダーの故障率だ。久米は国際放射線防護委員会が決めた放射性核種ごとの「年間摂取限度量」を紹介しているが、「労働者の場合で一万人がこれだけ取り続けると一年に五人ずつは死ぬ」というものだ(P165166)。桁が100倍も違う

(注8)もちろん詳細設計もおかしかった。製品設計ではFTAFailure Tree Analysis)という手法があるが、たとえばスイッチの焼損という故障だけでも想定される要因は60以上あがる。久米は「もんじゅ」で温度計の破損によりナトリウムが漏れた例をあげているが(P131)、原発のような巨大システム全体では数万の要因が想定されるだろう。それを列挙し、すべてを保証するような行為があったとはとても思えない

(注9)「全原発の廃炉、政府・東電は責任をとれ、広域避難で命を守れ」参照

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コメント

久米先生とは小生が大阪大学大学院でサイクロトロンを使って研究していたときから親しくしていただいておりました。
反原発運動に関わっておられたことはよく存じています。また、大学闘争ではご一緒させていただいとこともあります。
83歳でお亡くなりになられたことはこの記事ではじめて知りました。合掌。
 高木仁三郎先生の記事は新聞等でしばしば目にしますが、偉大な久米先生の名前がマスコミに登場しないのを残念に思います。小生も、30年前にごく短期間で微力ながら反原発運動に関わったことがありますが、次のような事情で途中で止めました。運動している仲間が、「反原発なら、節電せよというのはおかしい」と言ったのです。これにカチンときて止めました。民主主義は50%が賛成で、45%が反対、5%が分からないという状態では、50%側がかならず勝ち、残りの45%は負けます。負けた方の意見はまず、ほとんど無視されます。そうやって、日本のエネルギー政策は進められてきました。このたびの事故で負け犬の意見も見直されてきたようですが、遅きに失しました。福井県や福島県の知事をはじめ市町村長が電力会社に何やかや文句を言っているようですが、彼らは国の施策である原発を推進誘致してきた張本人たちです。文句を言う資格はありません。
 節電ですが、24時間垂れ流しているTVの電波を止めませんか。くだらない番組が多すぎます。24時間営業の自販機やコンビニを止めろと言う「ばかげた」運動?よりよほど効果があると思いますが、いかがでしょう。
 久米先生が懐かしくコメントを書かせていただきました。

このBlogの主です。
久米三四郎があまりマスコミに登場しないのは、本も学術論文もいっさい書かなかったことがあると思います。『科学としての反原発』という本は、闘いのなかで書かれた遺稿集です。終生、一科学者として現地闘争に貢献し、「科学」の在り方に批判を加えてきた方で、そこに私は感動を覚えてきました。だからこの本は『反科学としての反原発』という題であるべきだった、とBlogに書きました。
一方、高木仁三郎さんは70年代から存じ上げていましたが、たくさん本を書かれ、チェルノブイリ後の脱原発法の署名運動を推進されました。原子力資料情報室も立ち上げています。そのような点が久米さんと違うのかもしれません。
このかんいくつか原発事故関係の文章をBlogに載せてきましたが、私の根本的な考え方の一つは「反科学」であり、その点でこの文章に注目していただいたのはうれしいです。
今後ともよろしくお願いします

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