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2012年5月17日 (木)

Occupyの政治・経済学―「最後の鐘」を鳴らす者はだれか?①

認知資本主義を論ずる人々は諸関係を転倒していた。この転倒は、ベーシックインカムという新たな分配の様式を引き寄せるための、労働価値説の否定にもとづく意図的なロジックと言えなくもない。だが根本的には、金融資本主義の物神性に幻惑された結果であろう。それがもたらすものは、剰余価値の否定、すなわち資本主義的生産様式の「直接的目的および規定的動機」の否定、従って階級闘争そのものの根拠を見失うことである。それは金融資本段階の資本主義批判の失敗であった。

 

●金融資本主義段階における「物神性」のワナ

再びマルクスを引用しよう。「利子生み資本において資本関係は、その最も外面的で最も物神的な形態をえる。この場合に我々がもつのは、G-G’、より多くの貨幣を生みだす貨幣、両者を媒介する過程なしに自らを増殖する価値である」(注1)。ここで「外面的」というのは利子生み資本の現象形態のことである。またここで「物神的な形態」というのは何だろうか。ある貨幣額が譲渡され、生産および流通過程をへて剰余価値が実現された後、利子をつけて回収されるという全プロセス(G-G-W-G’-G’’)に対し、その中間項が蒸発して「G-G’」と、私たちの意識に観念される幻影的形態である。そこでは当然、労働力や原材料の購入、その直接的生産過程への投入、剰余価値の生産や実現はすべて失念される。まさに「カネがカネを生む」という幻影だ。そこでは利子という剰余価値の一形態は、また一般に剰余価値は、まさに「自然」に、貨幣の属性そのものによって生みだされたように見えている。

 「労働生産物の謎的性格」についてマルクスは言う(注2)。「商品形態は、人間自身の労働の社会的諸性格を、労働諸生産物そのものの対象的諸性格として、これらの諸物の社会的な自然諸属性として・・・人間の眼に反映させる」、と。これは人間の頭脳の生産物としての「幻影的形態」であって、マルクスは宗教的世界の妄想をたとえて「物神崇拝」と名付ける。またこの幻影を産み出す社会的な現象形態について言う。「諸労働そのものにおける人と人との直接的に社会的な諸関係としてではなくて、むしろ、人と人との物象的諸関係、および物象と物象との社会的諸関係として、現象する」(注3)、と。『資本論』の冒頭ちかくでこのような議論が行われていたのは、もちろん商品の「謎」の解明そのものが課題だったからだ。だが主体的にいえば、商品から貨幣へ、そして貨幣から利子生み資本にいたる歴史―論理のプロセスにおいて、この物神性の批判が階級的な立場の鮮明化にとって「カナメ」の位置を占めるからでもある。榎原均は『価値形態 物象化 物神性』において、この「幻影的形態」と「現象形態」との区別の重要性を強調している。「商品の物神性によって、物象として現象している商品形態が、人間の眼に物と物との関係という幻影的形態を反映させるとすれば、この物象の物化と、人々の社会的関係の商品関係への転化、つまりは物象化とは区別されねばならない」(注4)、と。

 ここまでのキーワードは以下のようである。

               
 

キーワード

 
 

                    意味

 
 

物象

 
 

商品など「いくらで売りたい」といった意志が込められた社会的なモノ、またはその現象形態

 
 

物象化

 
 

商品形態が、社会的関係を人間にモノとモノの関係として観念させる幻影的な形態

 
 

物化

 
 

社会的関係がモノとモノの関係として、またはある機能がモノの自然属性と見える事態

 

 

●ホロウェイとルカーチ――物神性=物化の混同と疎外論

 ここで認知資本主義論者たちから離れて、ジョン・ホロウェイの物神崇拝批判を検討してみよう(注5)。なぜならホロウェイは、『権力を取らずに世界を変える』の冒頭で以下のように言っているからだ。「1998年の統計では、世界の最高額所得者の358人の資産は、世界中の人間の45%(25億人)の年間所得に相当する」(P14)、と。彼は早い時期からOccupyの行動に立つ人々の側にいたのかもしれない。この本では物心崇拝の問題にほぼ3割のページが割かれており、「物神崇拝は、マルクスの権力論の核になっていたもので、世界変革に関する議論の中心にあった」(P95)と強調されている。そのことの意味するものは、「物心崇拝という概念は・・・古くからある疑問、つまり『なぜ人々は資本主義の悲惨や暴力、搾取を受け入れているのか』という疑問に対する回答の基礎を提供」(P114)している、ということだ。この見地は、商品形態が「幻影的な形態」を強制し、それゆえ人々が資本主義社会を「永遠の自然」とするブルジョアイデオロギーを受けいれる、そのメカニズムに接近している。

だが、問題は正しく提起されているが、「回答の基礎」を見誤っているように見える。ホロウェイは「物と物との関係」というときの「さまざまな物」を、「総括的・抽象的にいうときは、『物象』と表現」すると定義している。また物神化についても、「関係における働きを物がもともともつ力によるものととらえること」と把握している(P107)。これは物象の意味をあいまい化しており、また物象化を「物化」と混同している。後者については「社会関係が『モノ化』あるいは『物象化』されている」(P120)と、イコールの関係としている。これはなぜ起こっているのか。ホロウェイは商品や貨幣の「謎」にも、あるいは生産や流通の過程の仔細な分析にも立ち入らない。ただ彼は述べる。「行為を行為の結果から切り離すことは、構成もしくは生成を存在からきりはなすことです。なされたことが、それをなした行為から切り離されるのです」(P125)、と。ホロウェイはマルクスの『経済学・哲学草稿』を援用し、自説を補強している(注6)。これは端的に言って疎外論だ。すなわち物化=物象化=疎外論である。ここから出てくるのは、疎外からの回復としての「叫び」や「行為」ということになってしまい、実際にはかの「回答」をおこない得ないことになるだろう。

ホロウェイはP120の引用部分に続いて、「『物象化』という言葉は、1923年に刊行された『歴史と階級意識』で使った言葉です」と述べ、ルカーチとの近親関係を示唆している(注7)。そのルカーチは、「商品に対象化された人間労働の抽象化」の原因を、以下のように言う。「客観的にみると・・・この世界の法則(商品関係の神秘化―筆者)は・・・認識して、これを自己の利益のために利用できはするものの、かれは実践的活動によって現実の経過そのものに働きかけて、これを変革するという効果をあげることはできない」、と。そこには「法則」として現れる社会的関係と自然法則との混同がみられ、彼の「物象化」論なるものの危うさが見て取れる(注8)。二人には共通に物象化と物化の混同がある。ここからルカーチは、最終的には「党」の問題に至るプロレタリアートの「総体性」(注9)の獲得を論じるのだが、ホロウェイはこれに反対することでルカーチから離れるかに見える。ホロウェイは、最初から「全知なる者」=党(P173)が埋め込まれた「総体性」を拒否し、「堅固な物神崇拝」と「過程としての物神崇拝」という対比を行う。前者は「確定された事実・・・ますます強化されていく」ものであり、後者は「不断の闘争」のなかにあるという把握だ(P162)。

だが実際には、「堅固な物神崇拝」と「過程としての物神崇拝」とがあるわけではない。あるとすれば、資本主義的生産様式のなか、日々の行為と認識のなかで刷り込まれる「堅固な物神崇拝」があるだけだ。彼はそれへの批判を回避する。代わりにホロウェイは国家権力を実体として見る考え方に反対し、関係としての政治・経済・社会的権力を描こうとする(P192~)。またルカーチが「党」に逃げ込むのに対し、「疎外ないし物心崇拝の概念には、それと反対のものがふくまれている」(P182)と主張する。そしてこれは、「私たちの日常の活動のなかでくりひろげている疎外に対する抵抗、拒否、拒絶してある」と言う。「叫び」において、「物心崇拝とは『過程としての物神崇拝』にほかならないことが明らかになって・・・確立された事実であるかのように見えていた現象もやはり過程に他ならなかったことが明らかになって・・・(歴史的―筆者)形態という考え方が生きかえってきます」(P183)と主張するのだ。

 

●物神化と、反物神化の非和解的対立の運動?

 私はもちろん、資本主義がホロウェイの言うとおり生成の歴史を持ち、歴史的に限定された一形態であることを承認する。また、「物神化を思想だけで克服することはできない」(P149)ということもその通りだと思う。だが、「物神化と反物神化との間の非和解的対立の運動」、「批判理論を、物神化に対する反物神化の運動の一部」(P211)と捉えたとしても、「古くからある疑問」への「回答」を運動の過程に委ねただけで、ついに解けない問題に仕立てあげただけなのではないだろうか。

私は以前、ローザ主義者であるJ・ブレッヒャーの『ストライキ』(晶文社)の書評を書き、「資本の指揮権の収奪」という表題で紹介した(注10)。アメリカの大恐慌時代、タイヤ工場の労働者の闘争はGMのフリント車両組立工場をほぼ完全に止めた。それはラインのスピードアップに対し、職場のインフォーマルな「作業グループ」が資本の指揮権に抗して自然発生的に職場内座り込みに入ったことに始まる。女性たちも占拠に参画、他工場の労働者も山猫ストをうって支援に駆けつけ、ゼネストに発展したのだ。ブレッヒャーは労働者の倫理観と、自決・連帯・自主管理という性向を取り出してみせる。そして「新たな潜在的権力観を生んでいくかというような場合にのみ、大多数の人々は従来の慣行的なやり方で行動するのをやめる」(P272)と主張する。だがこのような労働運動の自然発生的な高揚は、AFL-CIOの労働運動の合法化と団交重視の方向に回収され、やがて生産性向上原理にもとづく協約闘争―認知資本主義論者が言う「フォーディズム」―に引き込まれていったのである。失敗や敗北は避けることができず、それを恐れる必要は全くないが、私たちは歴史的な教訓を資本主義の更なる批判へと構成していく必要があるだろう。

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(注1)『資本論』3524章、青木書店P555。なお同個所を以下の文章で引用し、説明した

http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/occupy-1c09.html 参照

(注2)同114節「商品の物神的性格とその秘密」、青木書店P172

(注3)同、P173

(注41990年、私家版。P291など

(注5)『権力を取らずに世界を変える』(同時代社)。原著は2002年および2005年で、貿易センタービルへのテロ事件とアフガニスタンへの爆撃が始まったとき、初版の原稿は手を離れていたという

(注6)城塚・田中訳『経済学・哲学草稿』(岩波文庫)の、「労働者が彼の生産物のなかで外化するということは・・・彼の労働が彼の外に、彼から独立して疎遠に現存し、しかも彼に相対する一つの自律的な力になるという意味を、そして彼が対象に付与した生命が、彼にたいして敵対的にそして疎遠に対立するという意味をもっている」(P89)など

(注7)ついでにホロウェイは注で「この(物象化という)葉はマルクス自身の著作には見いだされない」と言っているが、これは事実に反する

(注8)平井訳『歴史と階級意識』(未来社)P15~。一方、ルカーチは同じ平井訳の『ローザとマルクス主義』(ミネルバ書房)のなかで、エンゲルスが弁証法的方法を自然認識にも拡大したことを批判している(P24)。彼の不徹底は、物化を物象化と言う混乱によっている。ちなみに『歴史と階級意識』の原著の全貌は、上記の2冊に相沢訳『組織論』(未来社)を加える必要がある

(注9)ルカーチはローザの『資本蓄積論』を「総体性」の見本として称揚している

(注10)以下のブログを参照

 http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/j-74e3.html

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