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2012年5月21日 (月)

【書評】デヴィッド・ハーヴェイ『資本の<謎>』(作品社)の「謎」とは?

500年を単位として資本主義の歴史を考えるという、歴史地理学者デヴィッド・ハーヴェイには前々から関心を持っていた。「同業者」かな?とも思えるカール・ポラニーの『大転換―市場社会の形成と崩壊―』(東洋経済新報社)に啓発され、2年近く前、「歴史夜話=資本主義500年―若き労働者の闘いの記憶」(全5回)をブログに掲載したこともあった(注1)。519日には明治大学でこの本をめぐるシンポジウム(ルネサンス研究所主催)も開かれたらしく、評判を呼んでいるようなので紹介したい。ハーヴェイは博識で、饒舌で、でもオペライズモ系列の人々と違って屈折のない直截な文章だから、大部だが読みやすい本だ。

 

●恐慌論ではなく、革命論としての『資本の<>

上記のシンポジウムのパネラーの1人である伊藤誠が「『資本の謎』の謎解きのために」という解説を行っている。それは簡単に言えば、職業柄か「ハーヴェイの恐慌論にあたる著作」と言うものだ。確かに08年恐慌をうけた09年の著作なので、副題は「世界金融恐慌と21世紀資本主義」である。だが決して恐慌論の範疇にはいるものではなく、そのような資本主義の段階における革命論の本である。「恐慌論」だとしても、彼はハーヴェイの主張を読み違えているように思える。伊藤誠は恐慌の原因をなす類型を以下のように整理する。

①【利潤圧縮説】蓄積の過程で(労働力不足により―筆者)実質賃金が上昇して利潤率が下落する

②【利潤率の傾向的低下説】資本の有機的構成・・・が蓄積の過程で高度化して・・・利潤率の傾向的低下

③【過小消費説】労働者大衆の消費を抑制する分配関係にともなう有効需要の不足(以上、『資本論』)

④【不比例性恐慌=ヒルファーディング『金融資本論』】無政府的な投資が、生産部面間に不比例 (P151

だがこれらは(伊藤説とは少し違うが)、資本過剰説(①②④)と商品過剰説(③)とに2分され、③も結局は資本過剰説に含まれる。そして資本過剰説は根本的には②利潤率の傾向的低下説に帰着するのである。

 伊藤誠は宇野経済学の現理論―段階論―現状分析の範疇を下敷きに、次のように言う。「(ハーヴェイ理論の―筆者)接近方法は、『資本論』でマルクスがめざしていた資本主義経済の内的矛盾の発現として、・・・(恐慌の―同)原理を論証しようとする研究次元での課題に応えようとするものではない」(P353)、と。革命論である限り当然だ。だが彼が根本的に読み落としているのは以下の記述だ。ハーヴェイは自問自答して言う。「3%の成長が3%の再投資を必要とする理由は明らかである。資本主義は、実のところ、外部的可能性が使い果たされている状況のもとで存続しようとするならば、それ自身の有効需要を自ら産み出しそれを内部化しなければならない」(P145)、と。これは明らかにローザ・ルクセンブルグの『資本蓄積論』における「資本制的蓄積は非資本制的社会構造を必要条件とする」という説を下敷きにしており、資本主義の蓄積の限界が近づいていると主張している(注2)。それは当然「利潤率の傾向的低下説」と親和的で、今日の恐慌と資本主義の終焉とが重なりつつあることが暗示されているのである。かつ「利潤圧縮説」に関してもハーヴェイは言う。「労働過程と労働市場の双方における労使関係と階級闘争という、絶えず緊張をはらんだ問題にもとづいている」(P92)、と。彼にとって恐慌は宇野学派のような「学」や「体系」の問題ではなく、階級闘争と革命の問題だったのだ。

 

●ハーヴェイの7つの「活動領域」と、自然成長的な革命理論

 ハーヴェイの資本主義認識枠組みは「共進化」である。彼はマルクスを補完して、資本主義の認識枠組みを「7つの『活動領域』」にまとめる。①技術と組織形態、②社会的諸関係、③社会的・行政的諸制度、④生産と労働過程、⑤自然との関係、⑥日常生活と種の再生産、⑦世界に関する精神的諸観念――である。そして言う。「領域間の関係は因果関係ではなく、資本の流通と蓄積を通じた弁証法的な絡み合いである。したがって、全体としての編成のあり方が社会生態学的総体性を構成する」、「領域間および領域内部の不均等発展は、緊張と矛盾だけでなく偶発性も生みだす」(5章、P165)、と。これは時間的枠組みでの整理だが、空間的枠組み(67章)でも同様な展開がされている。

そしていくらか先走って、ホロゥエイ(3)やホーケン、レーニンやフーコーを批判する。ホロゥエイはもっぱら労働行為の出発点からのみ「権力をとらずに世界を変える」と論じ、ホーケンは「日常生活を変えよう」という点にこだわっている。レーニンは「社会的・行政的制度の支配と改革・・・を特権化」しており、フーコーは「制度的・行政的システムと日常生活」の枠に断片化している。いずれも総体性を失っているというのだ(P171~)。これに対しハーヴェイは言う。「国家権力の単なる獲得によっては真の社会主義ないし共産主義をなしえない。共進化するシステム内部の他のすべての活動領域が何らかの形で連動して動く場合のみ、資本主義的支配とは大きく異なった全面的な革命的変革について語ることができる」。「問題は、国家が人々の問題を処理するのに妥当な社会組織なのかどうかではなくて、どのような種類の領土的権力であれば、別の生産様式への移行にふさわしいのか、である」(P258)、と。

このような認識枠組みは国家権力奪取の問題を新しい関係のもとに位置づけ、原則的ではあるが、革命論としてはいくらか「平板」なものになる可能性がある。総体性を反映した様々な運動が紹介され、分類・整理され、それぞれが陥りがちなリスクに警告が発せられる。その共進的な闘いが目指すべきものは、互いの「同盟」である。そして彼は言う。「戦略的な政治的介入は、しだいに社会的秩序を異なった発展経路へと動かしていく」(P285)。「略奪の経済を対象にして怒りと道徳的憤怒が起こるにつれて、分裂している政治運動も必然的に融合しはじめ、時間と空間の障壁を乗り越えていくだろう。/このことの政治的必然性を理解するためには、まずもって、資本の謎を解き明かさねばならない。」(P322)。また言う。「現在は絵に描いた餅のように非現実的に見えるものが、いったんわれわれの精神的諸観念と、われわれの社会的制度や行政管理制度が変革の政治的可能性に開かれるやいなや、まったく異なった意味を帯びるようになる」(P291~)、と。これらは自然成長的な運動の発展を期待しており、また循環論法的な臭いがする。

 

●物神性の謎をとけず、資本主義と共産主義の生成を同一視したハーヴェィ

 それを打開する切り口はなにか?資本の謎を解き明かす、精神的諸観念の変革――問題は正しく提起されている。しかしここでも答えはない(注4)。

その理由の1つは、ハーヴェイが歴史地理学者だということ自身にある。彼は共進的な革命(共―革命)理論の「基礎」を次の点に求めている。「重要なのは、政治運動がある活動領域から別の活動領域へと相互に強化しあう仕方で移動することである。これこそ、資本主義が封建制から出現した過程を示すものであったのであり、何か根本的に異なったもの・・・が資本主義から出現するであろう過程を示す」(P284)、と。しかし、このアナロジーは根本的に間違っている。確かに資本主義の出現はそうだったかもしれない。宗教改革は、独立した商品所有者と神の関係へと「物心崇拝」の枠組みを再編した。絶対王政の庇護のもとで商業革命は展開された。結果、ブルジョア革命は「最後の一撃」に過ぎなかった。それに対し今日の私たちは、ハーヴェイが言う「精神的諸観念」、すなわち日々の生産と認識において強化される「物神性」の拘束のなかにいる(注3)。プロテスタンティズムのなかに継承された「物心崇拝」は資本主義の発展の動力となったが、私たちは日常生活のなかで資本への隷属を再生産させられている。「何か根本的に異なったもの」が、資本主義から自然発生することはありえない。

したがって理由の第2は、ハーヴェイが「資本の謎」に、さかのぼれば「商品の謎的性格」に少しも立ち入らなかったことである。また経済学者である伊藤誠が、解説の表題を「『資本の謎』の謎解きのために」としながら、この点に少しも立ち入らなかったのは不思議だ。私がこの文章の表題を「『資本の<>』の「謎」とは?」としたのは、このためだ。ハーヴェィがこの本で何かを根本的に解決してくれたのではなく、問題はまだ、私たちの手の平のなかにある。

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(注1http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/500-fb1a.html 以下

(注2)「Occupyの政治・経済学(1)ローザとレーニンの帝国主義理論」参照

 http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/occupy-537e.html

(注3)ホロウェイについては「Occupyの政治・経済学(6)―『最後の鐘』を鳴らす者はだれか?①」参照

 http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/occupy-9790.html

(注4)「ここでも」と言ったのは、(注3)の文章に関係する。ホロウェイは「物神崇拝は、マルクスの権力論の核になっていたもので、世界変革に関する議論の中心にあった」と強調している。そのことの意味するものは、「物心崇拝という概念は・・・古くからある疑問、つまり『なぜ人々は資本主義の悲惨や暴力、搾取を受け入れているのか』という疑問に対する回答の基礎を提供」している、ということだ。この見地は、商品形態が「幻影的な形態」を強制し、それゆえ人々が資本主義社会を「永遠の自然」とするブルジョアイデオロギーを受けいれる、そのメカニズムに接近している。だが彼も物神性の問題に立ち入らなかった

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コメント

はじめまして。

>①【利潤圧縮説】蓄積の過程で(労働力不足により―筆者)実質賃金が上昇して利潤率が下落する
>②【利潤率の傾向的低下説】資本の有機的構成・・・が蓄積の過程で高度化して・・・利潤率の傾向的低下
>③【過小消費説】労働者大衆の消費を抑制する分配関係にともなう有効需要の不足(以上、『資本論』)
>④【不比例性恐慌=ヒルファーディング『金融資本論』】無政府的な投資が、生産部面間に不比例 (P151)

①は宇野弘蔵の妄想、②は恐慌が利潤率低下の傾向によって強化されることは事実であるにしても、利潤率の傾向的低下それ自身は恐慌の原因ではないのではないでしょうか。過少消費説は改良主義を正当化するために用いられてきた議論でしょう。結局、残るのは不比例説なのではないでしょうか。

拙い文章を読んでいただき、ご指摘まで頂いてありがとうございます。
恐慌についてハーヴェィも「不合理な状態を不合理に合理化しようとする資本の運動」といった表現をしています。それは成功する限りで、資本の「自己調整」としての恐慌を指していると思います。それは、たとえば産業分野間での蓄積の「不比例性」を整理するといった行為で、おっしゃる通りのことが周期的に起こっているわけです。ただこの「不比例性」は、投資=蓄積の無政府性によったもので、結果はある産業分野の利潤率の低下、ひいては総資本の平均利潤率の低下に結果します。それゆえ総資本を巻き込んだ恐慌に発展するのだと思います。
それゆえ根本的には、利潤率の傾向的な低下に各「恐慌」論は帰着すると考えた次第です。
ヒルファーディング説は、儲からないことによって、価値法則の強制によって、ある部署や事業分野、個々の資本のリストラという形で日々起こっていることです。ある産業分野のリストラにしても、10年単位では起こっています(恐慌の周期性を説明することができるかもしれませんね)。ただ、日々起こっていること、周期的に起こっていることの量的・周期的な出来事の単純な延長線上に、いわば「最後の恐慌」を想定できるものなのでしょうか?そういう意味で、ヒルファーディング説は、本質的な説明になっていないとも思いました。
私がローザの説と絡めて、「それは当然『利潤率の傾向的低下説』と親和的で、今日の恐慌と資本主義の終焉とが重なりつつあることが暗示されている」と言ったことには、そのような含意(または期待)があります。
今後とも、よろしくお願いします。

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