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2012年11月18日 (日)

【書評】『原発を拒み続けた和歌山の記録』(寿郎社)―勝利した現地闘争からまなぶべきこと

1110日の「再稼働阻止!全国ネットワーク」の結成集会には、午後の3つの分散会と夜の全体集会をあわせ、のべ300名が参加した。16の原発現地の方々がそれぞれ「再稼働阻止」の決意と取り組みを報告した。なかでも和歌山県の中西仁士さんの発言は特別の意味を持った。なぜなら和歌山の全県的な闘いは、67年から90年にかけ、合計5カ所の原発立地計画をことごとくつぶしてきたからだ。それをまとめたのがこの本、『原発を拒み続けた和歌山の記録』である(注1)。結果、建設が阻止された三重県の芦浜原発(注2)も含め、紀伊半島には1基の原発もない。

和歌山の闘いの歴史的意味について、中西さんはこう書いている。「いまから振り返れば、昭和63年(1988年)の紀伊半島と高知(窪川町)の闘いが日本における原発立地をめぐる推進派と反対派の天王山の闘いであった。『昭和の終わり』とともに、そこで日本の原発立地の流れが変わっていったのである。すでに原発の作られている地域での増設はあっても新規立地はほとんどできなくなってしまった」(P213)、と。

 

●土地所有権と漁業権―自治と民主主義が奪われたなかで

 地権者・漁業権者の抵抗は、日本の反原発運動のなかでキーポイントとなってきた。というのは、原発の許認可・規制権限が政府に一元化され、自治体が「3割自治」におとしめられ、農・漁村に「過疎」化が強制されるなかで、政府と自治体と電力会社が一体となって原発建設を推進してきたからである。残る「砦」は土地所有権と漁業権(注3)だけになりがちだった。悲惨な事故にたち至った福島県と、勝利した和歌山県の場合を対比してみよう。

                       
 

 

 
 

土地所有権(農業)                                     

 
 

漁業権(漁業)

 
 

反対運動

 
 

福島県

 
 

県の開発公社が3/4、東電が1/4を買収

 
 

9組合が5ha強を1億円の補償金で放棄

 
 

双葉地域原発反対同盟。指導者の転向などで拡大せず

 
 

和歌山県

 
 

県・自治体と関電がウソとダミー会社を使い事前買収

 
 

揺れはあったが、最終的には全漁協が事前調査に反対

 
 

各地の女性が奮闘、最終的に「脱原発わかやま」結成

 

福島県は60年に日本原子力産業協会(注4)に参加しているが、同協会は用地買収の成功を以下のように総括している。「隣接地区では精農家が多く、生産意欲が大きいために反対機運があったが、当地区(大熊町―筆者)では開拓農家が主体で生産力・定着力共に低かった」(注5)、と。まさに耕作困難地をあてがわれた貧農の足元を見た、のちの成田空港建設と同じ立地計画と土地買収が行われたのである。東電が買収した30万坪も、強制収用された旧陸軍航空隊基地が民間企業に安く払い下げられ、遊休化していたものだった。

 和歌山県の土地買収は、すでに立地が困難になっていた状況を反映し、手口はまったくペテン的である。まず67年に目を付けられたのは、和歌山市南方の日高町阿尾地区だった。大信製材という会社が製材所をつくるといって用地を買収、それをそのまま関電に転売したのである。そこには地元の賛成派が絡んでおり、町議会はすばやく誘致を決議した。一方、72年暮れから県南の日置川町(現・白浜町)では町の開発公社が用地買収を開始、その名目は自然保護のため国定公園にするということだった。「日置川町民が原発誘致のことを知ったのは・・・土地が関西電力に転売されると報じた新聞記事によってである」(P25)。

 

●主体の転換―苦しい闘いと分断を越えて

 日高町への立地は、68年の阿尾地区総会と漁協総会の反対決議で頓挫する。だが75年以降に再燃、新たに日高町の小浦地区と上記の日置川町が予定地とされた。そのほか那智勝浦町、古座町などが候補となったが、前者は71年に町議会が反対を表明、最終的には81年に町長が「設置反対」を表明して計画が消滅する。後者は72年に町議会や漁協が反対決議をあげ、紆余曲折はあったが90年の議会決議でカタを付けた。そこで以下、90年まで継続した日高町小浦地区の攻防を中心に紹介していこう。

鈴木静江(日高町「原発に反対する女の会」)は、『女から女への遺言状』にこう記している。「阿尾は白紙撤回したけれど、その時は賛成の人、反対の人がほんまにもう、顔つきあわせてももの言わない状態になって、村が二つに割れてね、双方傷だらけになってしまった。・・・そういう状態が何年も続いていたんですからね」(P233)、と。日高町の阿尾地区は6年、そして小浦地区は90年までの15年、苦しい闘いとコミュニティの分裂を強いられた。

まず70年から町の予算を使って用地を買収、町長名義で登記、関電関連会社に転売する動きが先行した。756月の計画打診をうけると、議員・区長・住民の原発ツアーを重ねたのち、12月議会は「原発調査研究特別委員会」を設置した。比井崎漁協は76年の臨時総代会で「誘致につながる調査研究は絶対反対」と決議したが、他方78年の小浦区民総会は陸上事前調査の受け入れを決めた。日高郡の全漁協と地元・阿尾地区の反対決議が出そろった、68年の場合と状況が違う。カギを握るのは比井崎漁協だけとなってしまった。

この瞬間、闘いの主体の大きな転換が起こったのではないか、と私は思う。寺井卓也さん(注6)は淡々と書いている。「そうしたなかで、昭和535月、反対派住民による『原発を考える女の』が結成され、久米三四郎氏の講演会が開催された。阿尾地区の漁師たち130人も11月、『比井崎の海を守る会』(男限定)を結成した」(P57)、と。これは地区総会や漁協といういわばフォーマルな組織の危機において、女たち/男たちの自前の運動―組織が立ちあがったということを意味する。また「熊取6人衆」の久米三四郎のみならず、和歌山市の汐見文隆さん(注7)ら市井の科学者も多く運動に参加した。その翌年のスリーマイル島事故をはさみ、事前調査が着々と進むなか、8012月には上記2団体に日高町原発反対住民会議を加え、日高町原発反対連絡協議会が発足している。翌年1月、2地区労や日本科学者会議御坊分会と共催した浜辺の決起集会を経て、和歌山県原発反対住民連絡協議会が結成されたのは6月のことである(注8)。

 

●当然のこと―労働者・住民が現地をささえる

 日高町では、あらかじめ予定地が町の不法行為で買収されたり、東電が小浦地区に事前調査の「迷惑料」4,300万円が支払ったり、比井崎漁協の口座に3億円を預金したり、あらゆる手練手管が尽くされた。特に漁協については不正経理事件の暴露をうけ、自主再建を目指す動きに県・町・和歌山経団連が支配介入を計ろうとした。しかし総会は反対派の粘りで2回も流会となり、結果として事前調査は拒否され続けた。チェルノブイリ事故をはさんだ88年の総会は、組合長が壇上で殴られる事態となった。ついに組合長が宣言する――「議案は廃案」、と(注9)。それは海上事前調査の議題そのものを無しにすることを意味し、90年の反対派町長の当選もあいまって、日高原発の息の根を止めたのである。

 こうして和歌山の反原発運動は、国と自治体と電力会社が農漁民の生きる権利を奪って立地(注10)を推進するのに対し、労働者・住民が大きく彼らをささえ抜いたということである。それはしごく当然のことのように思える。だが実際に勝利した例は多くはなく、特に原発の既設地域では闘いは次第に弱まった。その一結果が福島の事故だ。他方、大飯での36時間のバリケード闘争は、このしごく当然な連帯の必要性と有効性を再確認させてくれた。それゆえ今回、「再稼働阻止!全国ネットワーク」も結成されたのである。97年まで続く2年に1基の割合の原発建設ペースを断ち切ったのが、90年の和歌山と88年の窪川町の闘いの勝利だった。私たちは勝利した反原発闘争に学び、かつ、再稼働を狙う原発に直に向きあう現地闘争と強く結びついていきたいものだ。

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(注120125月刊。8人が執筆し、3人の人物が紹介されている和歌山オールキャストの本で、中西さんは「反対運動をどう闘ってきたか」を書いている

(注2http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-5538.html 参照

(注3)漁民は原発による水域の占有や温排水などの被害を受ける。漁業権は、漁業法により知事が漁協などに与える免許だが、土地所有に準ずる強さを持つ

(注456年結成。現・日本原子力産業協会。その「目的と活動」には、「国民的立場に立った原子力利用を旨とする産業界の総意に基づき、各界の協力を得て・・・政府の行う原子力開発利用計画に協力」とある

 http://www.rist.or.jp/atomic/data/dat_detail.php?Title_key=13-02-02-05 参照

(注5Wikipedia 「福島第一原子力発電所」2.3参照

(注6)寺井さんは「5か所の原発計画と反対運動」の執筆を担当

(注7)「脱原発わかやま」顧問、この本の監修者。和歌山で反公害運動を長く続けてきた

(注887年には「日高原発反対30キロ圏内住民の会」も結成、88年の集会には窪川町からも応援が駆けつけたという(P79)。「30キロ圏内」という発想はこのころからあったようだ

(注9)元反対派だったこの組合長は「関電や県や町などに迷惑をかけたと言う一方で、『それ以上に漁民が大切。原発はもう出てきていらんな。仲たがいはしたくない』と述べ」たという(P86)。「板子1枚下は地獄」という生業に携わる漁師のこのような言葉は、芦浜の闘いのなかでも聞こえた

(注10)原発地域を「原発立地」と呼ぶことには違和感がある。「立地」の語源は、用地取得や住民懐柔など「立地させる」国・電力会社側の行為ではないか。反対運動のあることも含め「原発現地」と呼びたい

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コメント

以前、経産省前テントひろばのユースト放送で紹介されていたのでこの本を知り、私もこのほどやっと読みました。経緯の章では、和歌山県民の強い反対運動に会っても、「ずっと耐え忍んで・・・」「狙いをつけたら必ず立地」と、頑固にてめえの都合だけを一方的に押し付ける関電会長の言い草を読んで、よく聞く「基地と原発は同じ構造の問題」ということを思い浮かべました。人物に焦点を当てた章では、本業の傍ら、市民が入手できるさまざまな資料を読み解き、どこへでも出かけて行って学び、1980年頃すでに、『電力需要を調整し、ピーク時の電力需要を下げる』『総括原価方式を見直す』『廃棄物処理費用、廃炉費用などを考えると原子力発電のコストは高い』などの原発不要論を唱えていた市井の学者・宇治田一也という方の存在を知り、驚きました。このような人とその業績がもっと知られてしかるべきだろうと思いました。他にも印象的な方々が大勢紹介されており、本当に貴重な記録だと思いました。多くの人に読まれて欲しいですね。

Pさん:『和歌山の記録』を読まれたとのこと、うれしいです。私は反原発運動のなかで、原発労働者の問題とともに、原発現地の運動がキーポイントになると思っています(事故が起こった福島も現地の1つですね)。そのためこの間、和歌山とともに三重県芦浜町、高知県窪川町の闘いの紹介を本Blogで行ってきました。昨年7月31日と、12月1日の掲載です。あわせて読んでいただけるとありがたいです。
原発労働者と原発現地の闘いというと、昨年11月、「被爆労働ネットワーク」と「再稼働阻止!全国根とワークが発足しました。後者は全国の全発現地、16地域の連合です。ご存知ですか?
今後ともよろしくお願いします

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