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2013年7月29日 (月)

【書評】西川長夫『<新>植民地主義論』―ナショナリズムと差別の問題をめぐって

私がBlogに掲載した文章、「『国民運動としての反原発運動』に、“まともな批判”を試みる」(注1)に、崔勝久がコメントを書き込んだ。「(野間易通は)西川長夫をしっかりと読むべきですね」(注2)、と。西川長夫は立命館大学名誉教授、ルイ・アルチュセールの『マルクスのために』や『再生産について』(ともに平凡社ライブラリー)の訳者である。崔の念頭にあった本は、最新刊の『植民地主義の時代を生きて』(13年、平凡社)と思われるが、残念ながらかなり高価だ。そこで西川の言説を集大成するこの本に代え、手に取りやすい『<>植民地主義論―グローバル化時代の植民地主義を問う』(06年、同)をお薦めする。それは「911」後の論集だ。「グローバル化時代の植民地主義というコンテクストのなかに置いて、国内植民地論に別の角度から照明を当ててみたい」(P19)、というコンセプトに基づいている(注3)。

 

●「権利において平等な個人」という、ブルジョア国家と資本主義の擬制

崔は上記のコメントのなかで次のように述べている。「結論的に言うと、原発体制は植民地主義であり、それは国家と資本が作り出したグローバリズムだということです」、と。直観的にはその通りだと思う。だがこの認識を共有し、「反原発運動は本質的に植民地主義と対峙するものであり、反核・反戦・反差別を謳うもの」という闘いの質を達成するためには、いくつかステップを踏む必要がありそうだ。すなわちナショナリズムや、それを1つの根拠とした差別の歴史的・社会的な根源の問題である。

私は先の文章で以下のように述べた。「新自由主義が世界をおおう今日、歴史は一回りしてフランス革命当初の状況が再現されている」、「(野間の)『国民』概念は、フランス革命時のブルジョアに近い」、と。近代国家と資本主義の歴史の幕を開けたフランス革命は、その性格をどう自己規定したか。1789年のフランス人権宣言(注4)は、ルソーの「自然人」という空想的概念と「社会契約」論を下敷きにする。そして「権利において平等な個人」(法的人格=法人)を想定し(第1条)、その「自然的な諸権利の保全」を目的とするものとして国家を規定し(第2条)、法人の権利は「いかなる団体も、いかなる個人も」侵害できない(第3条)とした。いかにももっともな話に聞こえる。だがそこで決定的に欠落しているのは階級の問題だ。資本も1つの法人として個々人に並び立たされ、国家は法人の政治的結合と擬制されてバラバラな個人=法人を直接に束ね、国家と法人とのあいだに「中間団体」が介在することを拒否した。なぜなら、いかなる団体も他人の権利を侵害してはならないからである。それゆえ91年のル・シャブリエ法は、あらゆる結社を、労働者の団結やストライキを、刑事罰をもって禁止した。ここに国民を束ねるナショナリズムと、「国民である/でない」を原初の基準とした差別・排外主義のバリエーションの法的な根源が生成した(注5)。そしてそれは、生産手段を独占するブルジョアと、労働力の他には売るものを持たないプロレタリアとが、それぞれ商品所有者として向きあう資本主義的生産様式に物質的基盤をもっていた。

西川はその事情を、「国民は広大な『最初の植民地』であった」と捉えている。フランス革命に対応するのは日本の明治維新だ。「開国を余儀なくされ・・・日本は、欧米列強をモデルとして、『万国公法』の論理をわがものとし・・・独立を守ろうとする。だが『文明開化』とは列強の植民地化のイデオロギーであった『文明の使命』を自国民に向けることであり・・・さらに文明化した日本と文明化されるべき隣国、あるいは文明化された中央と文明化されるべき地方との関係に置き換えられる」(P26~27)、と。

 

●植民地主義の再生産装置である国家と、植民地主義的な国民

「国家が植民地主義の再生産装置である限り、国民は多少とも植民地主義者であり続ける」(P28)と考える西川は、植民地主義の再生産のシステムと、その産物としてのナショナル・アイデンティティを問題にする。通常、国家の要件は①領域(国境の存在)、②国家権力、③国民――の3つだ。西川はそれに、④国家と国民を支配し統合する国家装置と諸制度、⑤世界的なシステム――を付け加えた。この④は、西川が翻訳したアルチュセール『再生産について』の下巻に収録された、「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」に依拠する。それが画期的なのは、「私的領域と呼ばれる領域を国家のイデオロギー諸装置(・・・宗教、教育、家族・・・)という名のもとに国家論に引き入れた」(P204)ことにある、と西川は言う。

アルチュセールは、「<国家の抑圧装置>の「盾」のもとで生産関係の再生産そのものを大部分保証するのは、<国家のイデオロギー諸装置>である」(P197)、と両者の関係を位置づけた。前者は暴力的な公権力の行使であり、後者は私的なイデオロギー装置の問題だ。また「主体というカテゴリー」(P228)に注意を呼びかける。それはなぜ人々はブルジョア・イデオロギーを受容するのか、という問題に関係する。答えは「イデオロギーは主体としての諸個人に呼びかける」(P227)である。「法的イデオロギーは、『権利の主体』という法的なカテゴリーを採用して、人間は本来主体である、という観念をつくりあげ」(P287の注141)、主権国家=国民主権という相互関係において、イデオロギーの「主体的」な受容と血肉化を押しつけるのである。

西川は、国家は世界的な相互関係において成立・運動することを前提に、新植民地主義を、①植民地なき植民地主義、②労働力移動と格差の拡大、③グローバル・シティ――をキーワードに定義する。グローバル・シティは、「世界の多国籍企業のネットが結ばれる結節点であり、そこには資本や権力が集中しています。・・・同時に世界の移民労働者に開かれた都市でもあります」(P54)、と。それを中心に回る世界システムは、都市部が膨大な貧困層を抱える一方、あらゆる国で都市部と周辺部の格差が拡大する構造として描かれている。国内植民地は、帝国主義国と低開発国、その両者の都市部と地方という格子構造に位置する。その搾取と収奪のうえに、グローバル・シティを結び目とした世界のネットワークが成立する。このような構造であるグローバリゼーションの結果、「資本と国家の矛盾、あるいは国家それ自体が隠蔽してきた矛盾が一挙に露呈し、公/私をめぐるさまざまな領域の解体・再編が進行している」(P160)、という。

 

●西川が踏み込まなかった、資本主義が生産する基盤的なイデオロギー

この「植民地なき植民地主義」がもたらすものは何だろうか。西川は、「戦後、私たちはなぜ植民地問題を私たちの考察の正面にすえて深く考えることができなかったのか」(P9)、と問う。戦後の日本は、①すべての植民地を放棄し、②非武装を宣言し、③650万人にのぼる植民地からの引揚者は沈黙を守った。そしてGHQは在日朝鮮人らを、占領下の秩序を乱す危険な存在として支配管理すべき対象とみなす。「こうして日本人の植民地の記憶と植民地体験は密封され、戦後日本社会の意識の外に追い出されてしまうことになりました。あるいは植民地体験の全体から切り離されて、被害者意識のみが強調されることになりました」(P46)。この「植民地忘却」はGHQの占領政策の目標であり、ジョン・ダワーはそれを「新植民地主義的革命」(『敗北を抱きしめて』)と呼ぶ、と西川は指摘する。その結果は、沖縄の軍事基地化と韓国の独裁政権を与件とする、日本の新植民地主義的なアジア侵出であった。そのイデオロギーは私たちに内面化され、「植民地忘却」とそのコインの裏側の差別・排外主義が昂進することになる。

ところで西川が<国家のイデオロギー諸装置>1つである「文化」について多面的に論じ、植民地主義/新植民地主義の様々な言説や運動に触れている。基本スタンスは、「国民国家の成立と軌を一にしている文化の概念は、nationの概念とよく似た構造をもっている」(P80)、という観点だ。その観点から多文化主義など新植民地主義への融和論に疑義を呈し、クレオール主義(注6)についても「被害者の方から差し伸べられた和解の思想」(P100)だと批判した。西川はまた一方で、ネグリの「マルチチュード」を念頭に置いたバーバの「サバルタン・マイノリティ」(注7)文化論を評価する。「プロレタリアートのような階級概念ではなく、グローバル化によって抑圧搾取された多様な人々の・・・幅広い合意と共通の文化が問題にされている」(P89)、と。他方、国民国家の法的擬制である公/私のイデオロギーを批判して、階級概念や社会運動の根拠を論じる。そこには矛盾とあいまいさが垣間見える。

それはおそらく、685月のパリの共産主義者=アルチュセールの限界によっている。彼は『資本論』に対し、「イデオロギー・・・の理論そのものは含まれていない。そしてこの理論は大部分がイデオロギー一般の理論に依拠している」(P209)と、その欠如と未分化さを問題にしている。しかし彼は、「生産諸関係の再生産の実現の総過程の問題」(P246)を提起はしても、実際には<国家のイデオロギー諸装置>のなかに市場(流通過程)を含めていない。また生産過程については、搾取の問題を機能的に、<学校>という装置が作り出す専門家や職制の支配構造に求めている。結局アルチュセールと西川は、①貨幣の生成にともなう物象化と物化(『資本論』114節)、②労働力販売(流通の仮象)の領有法則への転換(同24章)など、『資本論』が提示するイデオロギー理論を見いだせなかった。つまり「国民である/でない」という法的なイデオロギーを基礎におく差別・排外主義に対し、その経済的=物質的基盤におけるイデオロギーの再生産を軽視した。上記の矛盾とあいまいさは、1つにその結果ではないだろうか。この後者については、また別の機会に考えてみたい。

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(注1http://yo3only.cocolog-nifty.com/log/2013/06/post-cff8.html 参照

(注2http://www.oklos-che.com/2013/06/blog-post_14html に同内容が掲載されている

(注3)それでもなお金がないという方は西川長夫の論文「<>植民地主義について」を参照

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/19-1/RitsIILCS_19.1pp-213-227Nishikaw.pdf

上記の本の出版とほぼ同時期の論文である。『立命館言語文化研究』191号に掲載されたものだが、同2号にまたがりほぼ<>植民地主義問題の特集号になっていて、おおいに参考になる

(注41条(自由・権利の平等)人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない。/2条(政治的結合の目的と権利の種類)すべての政治的結合の目的は、人の、時効によって消滅することのない自然的な諸権利の保全にある。これらの諸権利とは、自由、所有、安全および圧制への抵抗である。/3条(国民主権)すべての主権の淵源は、本質的に国民にある。いかなる団体も、いかなる個人も、国民から明示的に発しない権威を行使することはできない。

(注51948年の国連「世界人権宣言」もそのロジックを踏襲。他方、植民地(主義)については触れていない

(注6)カリブ海の旧フランス植民地(現:海外県)、諸民族混交のマルチニック島で、50年代生まれの文学者たちが88年に発した宣言

(注7)グラムシに由来する概念で、権力構造から全く排除された「従属的社会集団」のこと

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