« 【書評】西川長夫『<新>植民地主義論』―ナショナリズムと差別の問題をめぐって | トップページ | 「占拠の思想」―経産省前テントひろばの3年目を闘うために »

2013年10月 1日 (火)

【書評】ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』―ナショナリズムと差別の問題をめぐって②

GHQの占領期をあつかった上下巻900ページのこの大著で、ジョン・ダワーは、日本人の感情や言葉の微妙な意味合いを重視している。占領政策を規定した「初期対日方針」は、①日本が再び米国や世界平和の脅威とならないこと、②米国の目的を支持すべき政府を樹立すること――を柱としていた。それに基づいてGHQは、「政治、社会、文化、経済の網の目を編みなおし、しかもその過程で一般大衆のものの考え方そのものを変革する」(上P85)、という企てに取りかかった。一国の国民性を変え、国家と国民の関係を再編成するというのだ。上からの革命である。とすれば大衆の感情や言葉とその変遷を、膨大な公刊物や映像・画像、人々の生活や運動の中から拾い集める方法は、極めて適切だったことになる。

私はこのかん、反原発「国民運動」への批判から始め、フランス革命にさかのぼって国家―国民関係の法的・社会的イデオロギーを検討してきた(注1)。根本的なテーマは差別・排外主義の問題だった。今回、ジョン・ダワーに拠りながら、15年戦争と占領期に歴史的に形成されてきたこの問題を考えてみたい。

 

●新植民地主義的=家父長的なGHQの占領政策

いま「15年戦争と占領期」、と言った。それはジョン・ダワーの枠組みである。「1930年代から(対日平和条約と安保条約が発効してGHQが廃止された―筆者)1952年までずっと、日本は基本的には軍事支配の下にあったともいえる」(上P12)。天皇はといえば75年に、より長い射程でこう述べている。「戦争が終わってから、国民はいろいろな意見を述べてきました。しかし広い視野からみれば、戦前と戦後で変化があったとは私は思いません」(下P414)。2人の説の「超訳」を試みれば、軍政のもとで侵略戦争も平和憲法制定もあり、それは安保条約に帰結し、敗戦を経てなお戦犯=天皇(制)は生き延びた――ということであろう。

戦勝4カ国の分割・直接統治となったドイツに対し、アメリカ一国の支配下におかれた日本占領の形態は異なっていた。それは既存の政府組織を通じて間接的に行われた。「初期対日方針」は言う。「最高司令官は、米国の目的達成を満足に促進する限りにおいては、天皇を含む日本政府機構および諸機関を通じてその権限を行使すべし」――と。「そのため、降服以前の日本の政治体制のなかでも、もっとも非民主的であった制度を支持することにならざるをえなかった。官僚制と天皇制である」(上P274~)。これが占領政策の成功の秘訣であった(注2)。GHQ―天皇―官僚という権力、「上からの革命」というやり方は、権威主義に馴らされた日本人に適合的だったとジョン・ダワーは言う。「『朝日新聞』さえも、カトリックのように、マッカーサーを『我らの父』と呼んでいた」(上P309)。そのなかで「占領は、かつての西欧列強が世界に覇権を拡張していく時に伴っていた古い人種差別的な家父長温情主義が新しい形をとって現れたにすぎなかった」(上P273)。マッカーサーは退任時の議会証言で、日本人を「12歳の少年」と呼びさえしている。

敬意と服従の対象を天皇からマッカーサーに切り替えた日本人に対し、ジョン・ダワーはこう懸念する。「こうした行動様式は、『民主主義』という新しい流行が旧来の日本的な従順さの上に新しい衣装をまとっただけのものでしかないのではないか」(上P300)、と。また同時に、「日本の『進歩的文化人』や日本共産党は・・・天皇制民主主義の実践者であった」(上P319)、とも言う。「天皇制民主主義」とは、ジョン・ダワー独特のタームだ。46年頭のころの調査で、天皇の地位の護持を主張する人は16%に過ぎなかった。それに対し天皇は、46年元旦の詔書で明治天皇の「5カ条の誓文」を引用して統治の一貫性を主張する一方、自らの「神格」を否定することのみで退位の圧力を回避した。そして「保守派エリートはGHQと協働し、天皇を『人間』へと変身させるための大々的な宣伝活動に乗り出した」(下P85)。33000キロにおよぶ「行幸」だ。そして新憲法は明治憲法の「改正案」として、天皇によって国会に提出される。「それは実際は天皇自身からの贈り物として国民に与えられた・・・『上からの革命』と『天皇制民主主義』は、この儀礼を通じて融合した」(下P171)、というのがジョン・ダワーの見解だ。

 

●「科学に敗れた」という敗戦の総括と、民衆の被害者意識

一方45年段階から、学生自治会の創設、消費者運動の興隆、労組の結成が相次いだ。4651日のメーデーには250万人が参加した。517日の食料メーデーでは25万人が皇居前広場を埋めたが、これをジョン・ダワーは「思想的に見れば奇怪な矛盾のかたまり」と評する。なぜなら、「民衆の抗議行動が天皇へ上奏する形をとったことにある。・・・決議文では、天皇を『君主』および『最高権力者』と位置づけており、国民の意思にそった適切な措置をとるよう天皇に恭しくお願いしていた」(上P356)、と。ところがマッカーサーは「行きすぎた行為」と警告、反共キャンペーンにうって出る。これには学生1000人がデモで対抗、翌年には全学連を結成する。労働戦線も46年に社会党系は総同盟、共産党系は産別会議を結成した。産別は生産管理闘争を展開、47年「21ゼネスト」を構えたがGHQに禁圧された。

このような構造と運動のダイナミズムも背景にしつつ、どのようなイデオロギーが形成されてきたのだろうか。まず敗戦直後の20日の『朝日新聞』は「科学立国へ」という記事を掲げ、「われらは敵(アメリカ―筆者)の科学に敗れた」と総括した(注3)。28日には、首相となった東久邇親王が「一億総懺悔」を主張した。それは天皇一人を除く集団的責任論である。前者のイデオロギーは原爆の威力にけおされたものだが、より重要な点は、アジアに向けた植民地主義的な戦争の敗北という観点を抜かしていることだ。アメリカの検閲のなかでも「『大東亜戦争』という呼称が禁じられ、代わりに『太平洋戦争』とよばなければならなくなった」(下P217)。検閲官は「(41年開戦の―筆者)東条の役割は誇張されている、『戦争責任の問題』の核心は中国に対する侵略にある、といった批判を抑え込んでいた」(下P351、注4)。戦犯裁判でアジア人の判事は11人中3人、A級戦犯はほぼ41年の責任だけを問われた。30年代以来のアジア侵略は、戦勝国との間の植民地再分割戦でもあったからだ。憲法制定過程でも、GHQ案の権利主体としての人民(People、注5)は「国民」と書き換えられた。「保守派が『国民』という言葉を使ったのは、人民主権の意味合いを弱めるだけでなく、国家が保証する権利を日本国籍を持つ人だけに制限するためでもあった」(P179、注6)。彼らは、国民とは「あらゆる国籍の人々」を意味するとGHQに嘘をつき、在日外国人の排除に成功した。

キリスト者にして東大総長だった南原繁の説を紹介しよう。彼は帰らなかった学徒を「国民的罪悪に対する贖罪の犠牲」と呼んだ。他方、大学の戦争加担の責任にはいっさい口をつぐんだ。このロマン主義的美化についてジョン・ダワーは、「南原の編みだしたこの方式は、多くの日本人がさまざまに使える無宗教の『祈祷文』になった」(下P320)、という。その底にある「騙された」という受動態の動詞、「このぬめぬめしたことばを自分たちの個人的責任を洗い流す洗剤として使った」(同)。大衆的な意味で、キーワードは「被害者意識」だと彼は言うのである。このイデオロギーを戦後の平和運動のなかに見てみよう。

 

●アジア人民への加害の忘却と、空疎な「民主」と「平和」の運動

 犠牲者の神話化や、自分たちが踏みにじった相手の忘却といった「狭量な意識の危険性」は、平和運動が始まった46年頃にはよく認識されていたという。ところが「最終的には、平和意識をより普遍的に構築するためには、その基礎として犠牲者意識を強調するしかない」(下P341)、という結論になった。左翼的知識人たちは犠牲者意識=平和意識を個人から国、国際レベルへと同心円的に拡大することを構想したらしい。個人の「主体性」をめぐる議論も展開されたという。だが「犠牲者」にしろ「主体」にしろ、戦争責任問題や普遍的な平和運動への展開は、その内向きに閉じた構造において原理的にありえなかったのではないか。数千万とも言われるアジア人の虐殺や、軍隊「慰安婦」の問題もすっかり忘れ去られた。

 吉田裕も、「民衆意識のありようの中には主体的な戦争責任論の欠落とでもいうべき状況がみられた」(注7)、と述べている。そして民主主義と平和主義を確立していくことが、戦争責任問題を解決することであるとすり替えられていく。吉田は米国務省の報告書から、「迅速な国家再建のためには国民的統一こそが不可欠であるとする考え方に従属していくようになった」、というくだりを引用している。彼の結論はこうだ。「退行的な戦争責任論の方向に向かわないための内的な歯止めは、恐らく他民族に対する加害責任の自覚にあったのではなかろうか」。

 実に問題の核心はそこにある。自らを「被害者」と位置づけることによって、アジアの人々への「加害者」性が、そしてアジアの民衆そのものが忘却された。戦争責任を背負って国家の方向を民主主義と平和主義に見定めるとするなら、それを自ら具現化する責任もあったはずである。ところがGHQ―天皇―官僚という権力機構には手をふれず、憲法を自ら制定する革命的主体として立ち上がることもなかった。民衆は、GHQと天皇によって与えられた民主と平和の憲法の「受益者」、後には朝鮮戦争の特需と冷戦体制のもとで経済成長の「受益者」になったと言うべきだろう。

 敗戦直後、在日朝鮮人連盟が結成された(注8)。4710月の綱領では、「我らは帝国主義残滓と封建的異物を清掃し、進歩的民主主義国家建設に献身を期す」(注9)とうたっている。彼らは日本の人民として在日を選び、「国家建設」に携わろうとしていた。それを拒否したのが50年の国籍法であり、51年の出入国管理令であった。さかのぼって48年には「阪神教育事件」が勃発している。政府はGHQの指示により朝鮮学校閉鎖令を示達した。当然、大衆的な抗議行動が起こった。GHQは戦後唯一の非常事態宣言を出し、米憲兵司令部が全警官を指揮下において鎮圧、7,295人(公安資料)が検挙された。これが大きな転機となった。50625日、朝鮮戦争が勃発する。8月には警察予備隊が発足、保安隊・自衛隊へとつながる。その過程で、日本人による在日朝鮮人連帯、朝鮮戦争反対の顕著な闘いがあったとは言えない。在日朝鮮人は忘れられるどころか、差別・排外の対象へと固定化された。結果、差別と軍隊を抱え込む「民主」と「平和」の憲法の抜け殻が残ったと言える。与えられたものは当然、容易に奪い返されるのである。

 

●戦時総動員のメカニズムを埋め込まれた戦後社会

 「占領当局は、『総力戦』に向けた戦時総動員のメカニズムの大部分を温存した」(下P375)、とジョン・ダワーは言う。GHQは財閥の持ち株会社を解体したが、大企業が実際に分割されたのは11社に過ぎなかった。逆に政府は「傾斜生産方式」をとってエネルギーと重化学工業部門に融資を集中、「巨大資本の再統合と経済計画の・・・基盤が整えられた」(下P385)。48年暮れに来日したドッジの「経済安定9原則」は、超均衡予算を強制して労働者の生活を圧迫、レッドパージによって闘いの弱体化を計った。その他方、レートを1ドル360円に固定して輸出型の産業構造を用意し、省庁を再編して「未曾有の力を誇る通商産業省」(P391)を誕生させた。財閥の代わりに系列が生まれた。またドッジは、「日本の保守的大企業集団や、日本の官界および政界における彼らの同盟者たちと、合衆国のトップレベルの高官とを、戦後初めてパイプで結んだ」(コーエン)という。この構造をもって、日本は朝鮮戦争と冷戦の「恩恵」を被ることができた。

 55年の『経済白書』は、「もはや戦後ではない」と宣言した。それは経済復興のみならず、戦後のイデオロギー闘争の収束をも指していたかもしれない。日本人は「民主」と「平和」を語ることによって、戦争責任をうやむやにした。「被害者」意識から脱することができず、アジアの人々の15年にわたる侵略戦争の苦難とそれへの抵抗、そして新たな冷戦と熱戦を見て見ないふりをした。在日アジア人と同じ人民として協働するのではなく、「国民」の枠から排除して差別することにした。そして「国家再建」を目指して、国家―国民の背中合わせというイデオロギー構造を選びとってきたのではないか。「科学に負けた」という敗戦の総括は経済成長の強迫観念につながったが、同時に原子力の「平和利用」という国民的な運動にも誘導された。差別の固定化と成長イデオロギーは歴史的意味で同根だ。また今日の反/脱原発運動における「自然エネルギー採用による成長」論、「国民運動」としての展開という主張の危うさは、戦後の歴史的文脈でも検証されるべきだろう。「被害者」という立場を安易に強調することも、慎重に考えてみる必要があるかもしれない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(注1http://yo3only.cocolog-nifty.com/log/2013/06/post-cff8.html および

http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e3c9.html 参照

(注2)イラク戦争後にアメリカは、日本占領成功の再現を目指すと言ったが、再現できるはずはなかった。なぜなら、天皇に対応するフセインを殺し、官僚をすべて追放したからである

(注3)天皇が皇太子・明仁にあてた99日の同趣旨の手紙があるが、『朝日新聞』の影響が明らかだ

(注4)少しずれるが、915日の『朝日新聞』で、保坂正康が山本武利『GHQの検閲・諜報・宣伝工作』の書評をしている。「当初の事前検閲より後に幾分ゆるやかになる事後検閲」と書いているが、事後検閲は出版物の回収を意味し、損害は絶大だった。共産党は49年、新聞用紙の配給を77%削減された(下P244

(注5)アメリカ合衆国憲法は、我ら人民は(We the people)という言葉で始まる

(注6195054日施行の「国籍法」を指す。51111日には「出入国管理令」も施行された

(注7)吉田裕「占領期における戦争責任論」(『一橋論叢』1052))

 http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12550/1/ronso1050200210.pdf

(注8)全在日朝鮮人を包含。南で李承晩政権が成立するにともない、4610月に在日居留民団が分裂

(注9)『在日朝鮮人団体重要資料集』75年、湖北社

« 【書評】西川長夫『<新>植民地主義論』―ナショナリズムと差別の問題をめぐって | トップページ | 「占拠の思想」―経産省前テントひろばの3年目を闘うために »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

タイトル: 次の一手、 改憲へ

ジョン・ダワーはナショナリストであることを伏せている。
日本への(押し付け憲法の批判)をかわすために(日本人のソフトパワーが日本の平和を守ってきたのだ)・・・と日本人向けに説いている。 ハードパワーと外交が独立国の主権を守るのだという当然のことに日本が気づき、アメリカの植民地状態から脱却することを防ぐために、洗脳を推し進めようと企図した明らかな宣伝工作と言える。
未来永劫に日本を占領憲法(日本弱体化憲法)で呪縛しようと企み、発しているということに日本人は気付くべきです。
(ソフトパワー)を母国であるアメリカに広めることは彼自身する筈もない。アメリカは(ハードパワー)が平和を守ると考える国。
9条を柱にした戦後の新憲法を堅持することが平和に導き、それが日本人の特質であるかのように理論付ける。・・・アングロサクソンは実に理論武装するのが得意な種族だ。 中国はユーラシア大陸の渦巻く謀略の歴史から、戦わずして勝つための(兵法三十六計)を手にし、これを戦略の拠り所としたチェックシートとしている。 海を外堀として安住している日本は対外戦略を不得手としてきた。
たった一度、アングロサクソンの首領であるアメリカに大敗したことで、いとも簡単に日本人は洗脳までされてしまった。
侍の国(日本)は幕末に欧米からの支配戦略に屈してはならんと、立ち上がった志士等の行動で見事なまでの明治維新を起こし、日清・日露・第一次大戦を経て軍事力を付けることで一等国として誇りを持つに至った。 しかし、欧米との外交に経験不足な結果、日独伊三国同盟の締結という誤った判断をしたことで(戦勝国日本に結びつく選択)を逃してしまった。 アメリカとの戦争をなんとしても回避していたら、日本は戦勝国であったことは間違いない。
勝敗の違いで一国の運命を変えてしまうことを、日本は事前に知るべきであった。
現在の国際連合は戦勝国連合であるが故に、要所で機能不全を起こしている。 日本が活躍できないからだ。
過去の為すべき選択を取り戻すことは出来ないが、日本は将来にわたって敗戦国で居続けるわけにはいかない。
戦後レジームからの脱却を成し遂げて、日本は(軍事力・外交力・科学力・生産力・経済力・文化力)のゆるがない、有効な世界平和を提案できる発信力ある国へと進路を取るべきときに来ている。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1369591/53457683

この記事へのトラックバック一覧です: 【書評】ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』―ナショナリズムと差別の問題をめぐって②:

« 【書評】西川長夫『<新>植民地主義論』―ナショナリズムと差別の問題をめぐって | トップページ | 「占拠の思想」―経産省前テントひろばの3年目を闘うために »