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2013年11月29日 (金)

原子力防災訓練における「保護」、「動員」、そして「服従」

この秋、各地で原子力防災訓練が行われた。これは原発を抱える各県でほぼ恒例の行事だが、今年は特別な意味をもった。というのは原発再稼働の動きのなかで、原子力規制委員会が規制基準の達成とともに、仮に事故が起こったとしても住民が安全に避難できる計画を作成・検証すること――というガイドラインを設けたからだ。とすれば原子力防災訓練が矛盾を露呈し、破綻するようなら原発の再稼働はありえない。もちろんこれは、規制委が再稼働をさせたくないということでは全くない。規制委は、基準や審査の厳しさを装っている。だが本音は、「安全な原発」と「危ない原発」を切り分け、「安全な原発」の再稼働を進めることである。活断層の直上にある原発や、地震・津波などの対策が箸にも棒にもかからない原発を除き、何段階かに分けて、なし崩しに原発の稼働を認めていくつもりだ。規制委は1011日から2日間、福島原発事故いらい初めてとなる国主催の原子力防災訓練を新たな装いで鹿児島県・川内原発で実施し、住民の「安全」を演出した(注1)。

 

●安倍首相の決断と、自衛隊だけがめだつ訓練

はっきりしていることは、原発がなければ原子力防災訓練も必要ない、ということである。ここで2つの力が対立する。1つは原発の存在と稼働を前提に、不安を持つ自治体や住民を防災訓練に動員し、組織し、「安心」感を植え付けようとする原子力マフィアの力だ。2つ目は、原子力防災訓練そのものが原発のある社会の矛盾を鋭く露呈させていると批判する、反/脱原発運動の批判の力だ。従って、訓練を通じた住民組織化と、訓練そのものをどう批判するかが重要になる。そこで再稼働阻止全国ネットワークの取り組みとして、薩摩川内市を中心に行われた、2年ぶりとなる国の訓練の監視行動をおこなった。

規制委員会のうたい文句は以下のようだ。①シナリオなしの「実時間実働訓練」、②国・自治体・電力会社が連携した訓練、③放射性物質の放出後の訓練も実施――。従来の訓練は、①予定調和的なシナリオと「発話集」にもとづく机上訓練で、②国・自治体・電力会社がバラバラに実施し、③放射能拡散を想定しない訓練であった。それと比べると、大いに「進歩」した方針のように見える。では実態はどうだったのか。まず、シナリオは明らかに存在した。1110時に震度6の地震が起こる想定だが、その時点で鹿児島規制事務所の大会議室のTV会議システムはすでにスタンバイ、その3分後には「原子力事故警戒本部」が立ち上がるのである。「サプライズ」は、原発敷地内で火災と従業員の怪我が、従来の訓練に付け加えられたにすぎない。2つ目の連携した訓練という点は、ほぼ国・自治体・電力会社などが、同じTV会議システムでつながっているということに過ぎない。諸機関から100人近くが集合しているのだが、たんたんと情報伝達が行われるだけで、何か協議をしたり指示を下すわけではない。1222分に全交流電源喪失に至り、現地警戒本部が対策本部に改組された。それにともない「PAZ圏内の要援護者への避難要請」が行われたのが初日の唯一のジャッジで、そのご本部の訓練はいったん中断する。翌12日、事故発生から想定上4時間半たったタイミングで安倍首相がTV会議に登場、放射性物質の放出増大を告げて「原子力緊急事態」を宣言、内閣府に原子力災害対策本部を設置した。なんのことはない、「決める」「実行する」安倍首相というプロパガンダだ。ここでもSPEEDIデータの開示はなかった。

目立ったのは自衛隊である。放射能拡散を想定した訓練ということで、PAZ圏内の2地区の住民100人を乗せたバス2台が、原発の東方45Kmの姶良市の体育館に到着する。1次スクリーニングで汚染が確認されると、住民みずからがウエットティッシューでその部位をぬぐうのが除染だという。2次スクリーニングで効果が認められないと、待ち受けるのは大動員された自衛隊の対化学・生物・核兵器戦の部隊、特殊武器防護隊の除染テントだ。それに限らず、陸自の大型ヘリが住民避難に登場、海上保安庁の艦船も離島住民の移送を行った。

 

94,560人という規模がもつ、住民の避難中の被曝

この例からもわかる通り、PAZ5Km)圏内―UPZ30Km)圏内を問わず、実際に避難した住民は極めて少ない。30㎞圏外まで逃げた住民はPAZ圏内の別の地区をあわせて150名程度。同じく要援護者の避難も計画の半数の約575名と報告されているが、大半は動員しやすい児童・生徒で、小中学校ではさらに1つの学年だけに絞ったようだ。救急車で運ばれた寝たきりのはずの要援護者も、実際は自分で歩ける40代の女性。健常者の避難は、上記の150名以外は全く見かけない。その他の住民は屋内退避するものと位置付けられたのである。この避難者の少なさは、現実の原発事故に際しては単なる手抜き以上の致命的な意味をもつ。なぜなら川内原発のUPZ圏内の人口は94,560人だが、それをすべて50人乗りのバスで避難させるとすれば1,891台を要する。福島原発の際と同様、大渋滞が必至だ。ところが自動車の放射能防護係数は「0」で、渋滞の期間中、外部環境と同じ線量を住民は浴び続けることになる。川内市内では大半の木造家屋は係数「10」で、屋内退避の効果は10%減にすぎない(注2)。すなわち訓練は、まず避難を第一義とし、94,560人という「規模」の問題を解決するのでない限り、まったく無意味なのである。

その一方で自衛隊や海上保安庁が前面化し、一種の「スペクタクル」を演じてみせた。装甲車や軍用トラック、多数の迷彩テント、除染のゴールキーパーになる特殊武器防護隊。このうち装甲車はα、β、γ線までの防護能力をもち、特殊武器防護隊は除染の能力をもつ(注3)。だが福島では、地上部隊は「命令により撤退する」と言いのこして引き揚げ、ヘリが原発に水をかけるデモを行っただけだった。川内でも結局、住民の放射線防護や避難がまったくインチキである一方、自衛隊などの組織力と装備、安倍の自信ありげな演技で、住民の「安心」感を買い取ろうという作戦が読み取れる。ローマ皇帝の貧民に対するパンとサーカスの政策、コロッセウムにおけるスペクタクルの演出と同じだ。なぜなら原子力マフィアは、福島原発事故の際に起こったような10万人単位の避難は実際には整斉とは行いえないと、はなから考えているからだ。

 

●「保護」の体裁による、住民の組織化と「服従」の強制

スペクタクルとプロパガンダによる「安心」感の買い取り、インチキな「保護」を通した「服従」の強制――。このような原子力防災訓練の性格は、原発の直近で暮らす住民や、長らく原発の建設と運転に反対してきた現地の団体にとっては今更のことかもしれない。だとしたら原発現地において、改めて原子力防災訓練に反対することは無意味だろうか。福島原発事故がもたらした甚大な厄災は、大衆的な反/脱原発の意識を産み出す一方、一種の運動の「抽象性」をもたらしたように思える。それは自然・科学・技術を超越する巨大システム、原発の性格に規定されている。だからといって、生命原理に反する原発といった批判や、その対極にある「新しいエネルギーによる成長戦略」の提案だけで済ますわけにはいかない。

1015日から16日にかけ、「福島で保護と服従」という魅力的なタイトルのシンポジュームを日仏会館が主催した(注4)。テーマが「保護と科学者服従」と「保護と市民服従」に分節化され、科学者や市民の「服従」がフォーカスされがちになった。結果としていくぶん、国家の「保護」があまり問題にされず、それによる「服従」の買い取りという、支配の構造にたどりつかない面があったかもしれない。原子力防災訓練の問題は、まさにここにある。原子力マフィアは情報を操作し、公開しない。恣意的な権力支配を担保するためだ。また地震・津波・火山の噴火などの自然の力は制御できない。それらは人々を不安にさせ、無力な状態におき、パニックまたは思考停止を強制する。その状態に対し、自衛隊など国家権力の圧倒的な組織力と物理力を現前させ、「保護」されていることを認識させる。また権力のレールにのって動員され、避難訓練や防護活動など擬似的な運動を行うことによって、体で「安全」を実感することを強いられるのだ。「服従」は、情報やイデオロギーの面だけでなく、また権力の巨大な力を示すだけでなく、まさに組織的に動員されて運動を行うことによって住民に血肉化されるのである。もちろん先述のとおり、住民はうさん臭さを感じてはいる。しかし多くの住民が組織され、運動を強いられることによって、それを公然と表明することが難しくなっていくのである。

現実に原発をなくしていくためには、「人」の観点に立つ必要があるだろう。被害者がいれば、その対極に加害者がいる。人が止めることができた原発は、何度でも止めることができる。人が作ったものは、人が無くすことができる――。そして原子力防災訓練については、一方に「保護」を通した服従を買い取ろうとする原子力マフィアがおり、他方に疑問を持ちながらもその動員に応じ、組織化されていく住民がいる。そこに「介入」することが重要だ。そして原発現地とは、最も現実的な意味で原発の存廃を争う「場所」なのである。

 

●原発50年の歴史を巻きもどす、人と人のつながりの再建

東京にいる私たちは、原発の安全性なるものを検証し、再稼働を認めていこうとする規制委員会に抗議行動を続けていく。そのなかで、原子力防災訓練のインチキさを具体的に暴露し、住民の安全が少しも保障されていないことを批判する。それによって、規制委が唱える原発再稼働のガイドラインの一方を崩したい。防災訓練は事故の蓋然性を前提にしており、それは原発があることによるという根本矛盾を突かねばならない。

鹿児島の訓練に参加して、護憲平和フォーラムの方々の100人規模の取り組みが目についた。監視の他、30人ほどの方が住民の聞き取り調査に携わっていた。住民アンケートの結果を含め、いずれ報告集が出るそうだ。一方、伊方原発の現地では、70人ほどで原発周辺の2万を超えるお宅に原発反対のビラ入れを行い、話し込んだという。再稼働の動きが切迫する状況下、そうであるからこそなお、このような取り組みが重要なのではないだろうか。再稼働阻止のために必要なのは、原子力マフィアと現地住民の間に防災訓練など具体的な課題を通して「介入」すること、彼らの組織化の力に対抗する私たちの人と人とのつながりを再構築することである。再稼働を阻止し、原発50年の歴史を巻き戻すためには、この介入とつながりの再構築が重要だと思う。

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(注1)この文章は、たんぽぽ舎のメルマガに連載されたもの。そのさい字数制限により一部省略した

(注2)アメリカ環境保護庁(EPA)の「原子力災害時の防護対策指針」(改訂ドラフト、13415日)では場合により屋内退避を選択するとしているが、堅牢なビル内(防護係数=40)や地下室を指定している。

  「指針」:http://www.jaea.go.jp/04/shien/research/EP001.html

  「係数」:http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail/php?Title_Key=09-03-03-02 (低減係数表示)

(注3)泊原発の原子力防災訓練(108日)では、3台の装甲車が養護老人ホームからの避難者をのせ、ヘリ移送につないだ。だが避難者は老人ではなく、その施設の職員だった

(注4)「福島で保護と服従」で検索すると、2日間のシンポジュームの映像を見ることができる

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