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2014年10月13日 (月)

エネルギー産業の植民地主義―織井青吾『方城大非常』をめぐって

石炭に関わる本を読んだのは、上野英信『地の底の笑い話』(岩波新書)が最初である。山本作兵衛の挿絵に魅せられ、鉱夫達の労働、生活と文化に驚きがあった。そんな話をずいぶん齢のはなれた女性にした。すると彼女が沖縄に引っ越す際、炭鉱にかかわる本を「もう読むこともないから」と、ごっそり私にくれた。そのなかの1冊、『方城大非常』のカバーの裏に手紙が挟まっているのに気づいたのは、ずいぶん後になってからである(注1)。

「私は1929年、この方城炭鉱の社宅で生まれました。つまりこの本の大事故1914年よりは15年後で、父は炭鉱の医者として採用になった頃かと思います。かなり古い時代の事故なワケです。しかし極く幼かった私にも、『非常の・・・』、『ガス爆発の・・・』という言葉の記憶があり・・・断片的には耳にしていたことでした」、と記されていた。

 

●「方城大非常」の死者たちは、どこから来たのか

1914(大正3)年1215日、三菱合資会社の方城炭鉱で炭塵爆発が起こり、公式発表で671人の労働者が死亡した。第1次世界大戦が勃発した年である。この数字は、1978年までの事故統計で世界3位――(注2)。ただし織井は、1人当たり採炭量の統計や、2直で縦坑を降りる労働者の総数から推計し、死者は1,300人を下らないと言う。死者が1,000人を越すと操業停止になるので、700ほどの死者が記録から消されたのだ。こういう「非常」は、実は「日常」であった。同年、福岡鉱務署管内の170,220人の坑夫は98,012回の大小の「非常」にみまわれ、のべ96,766人が、すなわち2人に1人が死傷していた。

 織井は、先山・後山のペアを組んだ野上熊吉・アヤノ夫婦と、長女カズエの家族の遍歴をていねいに追っている。「熊吉の生家は3反の水田と1反の畑しか所有しておらず、あとは小作にたよるしかない貧しい農家であった。・・・この地方でいうスネヌキ、口減らしの出稼ぎは、次男の彼に当然のことであった」。熊吉の生家は広島県の山間部、高宮町(現・安芸高田市)である。地主は明治の中ごろには、全耕地の50%を所有していたという。小作人は、2月には常食の麦も底をつき、7月の新麦の収穫までのかん地主から麦を借りる。ところが世話人に10%の手数料をとられる。借用証書は「米借用」と書かされ、麦を米で返すことになり、10月の収穫まで25%の利子を払うことになる(『高宮町史』)。こうして耕地の収奪がさらに進む仕掛けだ。熊吉は、「不具」になって自死した兄の嫁と結婚し、連れ子のカズエをともない、「スネヌキ坑夫」として方城に出向くしかなかった。

 このような物語は当時、少しも希ではない。同じく明治の中ごろ、鐘淵紡績(現・カネボウ)東京工場で働いていた女工は、2,200人のほとんどが広島出身だったという。「女工哀史」の物語は有名だ。だが坑夫の場合、歴史的に「下罪人」として出発したことが違う。明治初期に官営・三井三池炭鉱は、囚人を採炭に従事させた。その後の「納屋制度」について、雑誌『日本人』(明治21年)に吉本襄の記事がある。「岩崎(弥太郎)氏は請負人すなわち納屋頭なるものを設け、坑夫を雇入れかつ取り締まりをなさしめたり。納屋頭は各地方の博徒その他の者に依頼し、ほとんど誘拐同様の手段にて雇入れた」、と。「取り締まり」は、募集からはじまり、逃亡防止、入坑促進、ノルマ強制、反抗者へのリンチ、賃金支払い、と多岐にわたる。納屋頭のピンはねは10%におよび、敷地内の売店は納屋の直営で、売値は市価より20%近く高かったという。

 

●大事故と、炭鉱夫の過酷な支配をもたらすもの

記録的な死者を出した「方城大非常」と、納屋制度を基礎とする炭鉱の背景は何だろうか。

日清戦争と日露戦争で利を占めた日本は、第1次大戦にも参戦、北太平洋のドイツ植民地を奪い、「21カ条要求」を中国に押し付けた。帝国主義諸国の植民地再分割戦である。それより以前、日清戦争が終わるころから八幡製鉄など製鉄業が勃興、190818年で石炭産出量は3倍に増える。航空機、戦車、毒ガスなどの新兵器を繰り出した、第1次大戦が拍車をかけたのは明らかだ。戦勝で得た賠償金と植民地の権益をテコとした、日本の重化学工業テイクオフの場面である。炭鉱資本は、農山村の疲弊と相対的過剰人口の析出を利用し、人海戦術で対応する。このとき納屋制度は、囚人労働の歴史を引き継ぎ、誘拐もどきに「スネヌキ坑夫」を狩りあつめ、過酷で危険な労働に追いたてる道具だてであった。しかも坑夫達は納屋頭の間接雇用で、炭鉱資本は責任を負わない。「大非常」も、人海戦術の一方、坑内の散水や空調などの安全対策をおざなりにした末の炭塵爆発であった。事故後、天皇が送った勅使の言葉はこうだ。「このたびの非常は、御国のために戦って戦死したのとおなじことである」、と。戦争と重化学工業化と棄民政策――。その結果、無念な事故死が「戦死」と称揚されたことは、後の総動員体制のもとでの「産業戦士」という言葉を想い起こさせる(注3)。

マルクスは『資本論』の冒頭ちかくで、「労働は質量的富の父であって、土地(=自然―筆者)はその母である」、と述べた。資本主義はこの2つの自然力を、一方は再生産費用を支払うだけで、他方は無償で我がものとする(注4)。つまり労働力は実費のみの支払い。それを前提にすれば、地下資源は無償で母なる大地から剥ぎ取られる。ところで資源は、鉄鉱石などの物質と石炭などのエネルギーに区分される。炭鉱とそこでの労働は、他の鉱業と大差があるわけではない。だが例えば鉄鉱石という物質はコークスを用いて精錬され、エネルギーの力を借りて加工されて、初めて機械などとして役割をはたす。ところが石炭は、地下から現れた姿のままでエネルギーだ。また機械と結びついて、全産業分野で剰余労働時間の拡大を行う。ここに炭鉱資本のボロ儲けと財閥形成、国策産業としての手厚い国家保護の秘密がある。安全対策が軽視され、死者が「戦死」になぞらえられたのは、まさに国策の故だったからなのだ。まして事故当時は、至上の国策としての戦争のさなかだった。

 

●納屋制度をひきつぐ、多重下請けの原発労働者

原発労働者がおかれている境遇は、方城の炭鉱夫たちと寸分ちがわない。多重下請け構造は、土建業の「飯場」の構造を引き継いでいると言われるが、大元は炭鉱の納屋制度であろう。納屋頭は今日の下請け企業主だ。労働者は炭塵のかわりに放射能にまみれ、幾重にも重なる下請け構造のもとで強収奪を受けている。そして原子力発電が、国策として推進されていることも同じである。

 なぜ電力会社という近代的な巨大企業のもとで、しかも国策として推進されている原発において、「封建的」とも言える労働のあり方が存続しているのか。反原発―原発労働者支援の運動に関わり始めたころ、私には素朴に疑問であった。その理由はおそらく、巨大企業であることと国策であること、しかも汚く不健康な労働が強いられるということそれ自身に求められるだろう。巨利をむさぼる巨大企業だから、責任を回避して現代の「納屋頭」に丸投げしなければならず、多重下請け構造のもとで強収奪が行われる。国策であるから、厚労省など官庁がその構造に本気で介入することができない。「汚い労働」という差別意識が広範かつ根強いから、労働者は福島原発事故の当初のように「神様」とあがめたてまつられるか、昨今のように忌避される。いずれにしろ人間ではないのだ。かつて九州の炭鉱労働者は、「タンコタレ」と、蔑称で呼ばれていたのだった。

 これを打破するには、どうしたらよいか。

63119日、戦後最大の労災事故である三井三池炭塵爆発事故が起こった。死者は458人、CO中毒患者は労災認定がおりた人だけでも839人である(注5)。この事故は60年の三井三池の大争議の敗北と、第2組合の結成をうけて、明らかに安全対策がネグレクトされたことが原因だ(注6)。裏返してみれば、労働者の団結と職場での闘いだけが労働者の安全と健康を守る、という当たり前の事実につきあたる。労働者の誇り高い労働と闘いも、その団結においてのみ達成されるだろう(注7)。また、原発は「原発のある町」として地域社会を再編成し、住民の意識と生活を支配することも忘れてはならない。

*この本をくれた人は古川雅子さん。2014526日没

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(注1)『地の底の笑い話』(1998年)も『方城大非常』(朝日新聞社1979年)も、残念ながら品切れのようだ。

(注23位とはいえ、1位と2位はいずれも日本の植民地である「満州国」での事故で、1,527人と917人が犠牲となった。炭鉱夫数に対する死者の指数は、日本は2位・3位であるカナダ・アメリカの2倍だ(1935年)

(注3)古河好間炭鉱あと(いわき市)に「産業戦士」の像(1944年作)が立っている。1人は旗を掲げる鉱夫、もう1人はスコップをもつ少年鉱夫だ。http://blogs.yahoo.co.jp/danjiki1975/64848845

(注4)この部分は、以下を参照。http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-76ea.html

(注5)方城の事故では、CO中毒はあまり重視されなかったようだ。患者は痴呆者として扱われた

(注6) 『福島・三池・水俣から「専門家」の責任を問う』(弦書房)参照

(注7)団結の課題については被曝労働ネットワークのHP参照。http://www.hibakurodo.net/

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