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2015年2月 1日 (日)

S・ショルカル『エコ資本主義批判』(月曜社)の提起と、その限界

ショルカルは言う。「来るべきパラダイムは、成長の限界のテーゼにもとづいている」(P35、注1)、と。それは「エコ資本主義」に堕したドイツ緑の党に向けられた批判の言葉だ。それらの傾向は、「80年代半ばまでには、産業社会を前提としながらもそれをエコロジー的に改造ないし現代化するという考えが定着した。これはさらに、持続可能な成長という新たなアイデアで強化された」(P16)、と。

 

私の関心事は、「資本主義の成長の限界を画するものは何か」ということである。1つは、ローザの『資本蓄積論』の見解だ。彼女は、全世界が資本主義化されたとき蓄積運動は止まり、資本主義の生涯は終ると言った。投資と労働力動員の限界論である。またマルクスは『資本論』33編で「利潤率の傾向的低落の法則」を論じている。資本の有機的構成の高度化がもたらす利潤率の低落の限界だ。資本主義の規定的・推進的動機が失われる。実際に近代経済学者も、70年代中期に始まった利潤率の限界的な低落の傾向を論じている(注2)。それらにショルカルが、何を付け加えてくれるのかが問題だ。

 

 

 

●閉鎖系としての地球=鉱物資源の限界と、マルクスの再生産表式

 

ショルカルの所説は、おおむねレーゲンの『経済学の神話』(東洋経済新報社)に依拠している。レーゲンは、「経済学者たちが過去100年にもわたって・・・機械論的な認識論に、頑固なまでに執着してきた」(P57)ことを批判する。機械論的認識論とは、時計の振子が左から右、右から左へと永久回帰運動を続けるイメージだ。力学的なモデルである。それが社会・経済に投影されて、資本主義の永遠性のイメージを醸し出してきた。この点でレーゲンは、近経学者もマルクスも区別はないと批判する。

 

レーゲンはエントロピー論者だ。エントロピーの簡単な定義は、「ある熱力学系の展開の中の一定の時点における利用不可能なエネルギーの量を示す指標」(P68)――。例えば冷えた低圧の蒸気は機関車のピストンを動かせないが、それはエントロピーが最大化した状態だ。レーゲンは、「エントロピー法則はあらゆる自然法則のなかで、最も経済学的」(P72)、「物質の世界もまた不可逆的な変化を受け・・・るということを認めた唯一の自然法則」(P71)という。そのとき、「地球は開放系ではなく閉じた部分系であり、すなわち環境とエネルギーだけを交換する系」(P165)であることが問題だ。すなわち宇宙との間で太陽エネルギーと廃熱の交換は行っても、物質すなわち鉱物資源などの追加はないのである。リサイクルも根本的には「危険な空想」(P167)の1つだと言う。

 

レーゲンのマルクス批判に戻ろう。『資本論』23202節に有名な単純再生産の表式がある。

 

Ⅰ)4000c+1000v+1000m=6000:生産手段。Ⅱ)2000c+500v+500m=3000:消費手段(c:不変資本、v:可変資本、m:剰余価値)――というものである。生産手段と消費手段の両生産部門間において、再生産のサイクルが回るという内容だ。確かに以下の記述はある。「この運動は、価値補填であるばかりではなく、質量補填であり、したがって・・・その使用価値、その質量的姿態によっても制約されている」(青木版P515)、と。ここでレーゲンの言う「物質」も問題にされているかのようだが、実際は価値分析に終始している。「物質」が軽視されることと、表式の「予定調和的」な循環により、レーゲンの批判は当たっているように見える。だが『資本論』は、資本の運動法則それ自体がいかにしてその転覆を必然するか、という意図で書かれている。それゆえ運動の実体としての価値分析に傾くのであって、近経学者との同列視は不適切であろう。

 

 

 

●「成長の限界」を例証しようとした、ショルカルのソ連論の失敗

 

さて、ショルカルである。その本のアドバンテージは、ソ連社会主義の崩壊の総括をベースにしていることにある。基本タームは「成長の限界」と「新しい人間」だ。

 

「成長の限界」の点では、ショルカルの細かい資料紹介は省く。彼は最終的には、アガンベギャン(ソ連のエコノミスト)の説に拠っているようだ。というのは以下のような内容である。「1次産品と燃料に関しては、たしかにソヴィエト連邦は十分な資源を有していた。しかし・・・その生産費用は急速に増加していた。・・・ソヴィエト連邦にとって、十分な量の輸入は困難だった」(P71)。生産費用の増加は、ソ連の厳しい気候、低い技術力と生産力、労働力コストの上昇による。「輸入が困難だった」点では、旧植民地本国が有する新植民地主義の基礎を欠いていたところに求める。「基礎」とは、①地球上の資源に対する支配力、②経済的・テクノロジー的・経営的専門知識、③世界規模の商業的接触――に対する支配力の差異という内容だ(P7174)。環境破壊の結果がそれに輪をかけた。とはいえこのような説明は、ソ連の場合に限らない。気候・環境が厳しく、資本の原始的蓄積がなく、それでも産業化―資本主義化をめざす第三世界の国々が想いおこされる。両者の類似性は、ショルカルも認めていた(P78)。「成長の限界」、すなわち資本蓄積による利潤率の低下というよりは資本の不足であり、「従属理論」に則した分析が適切だろう。

 

「新しい人間」についてショルカルは、シニヤフスキー(ソ連の作家)を引用している。「『新しい人間』の理念は、ソヴィエト文明の隅の首石だった。これなしでは、後進国において社会主義の建設は不可能である」(P80)。これは後進国に限らない。ところが、①数年で「新しい人間」は共産党員の別名となった。②民主制は搾取がないことにすり替えられた。③平等は、出来高払い賃金と所得格差によって汚された(注3)。特に、④「単独責任性」の問題が重要だ(P89)。これはレーニンが「戦時共産主義」段階で、「企業管理者の独裁」を提案したことに由来する。それは産業における官僚制のスタートラインであり、また国家―社会―経済の官僚化と相即する。201月に実際に導入されたこの制度は、実はマルクス『資本論』の指摘に背反する。「監督および指導の労働が対立的性格から―労働に対する資本の支配から―発生し、したがって、階級対立にもとづくあらゆる生産様式と資本制的生産様式とに共通する」(3523章)。資本家の監督・指導労働は、後に「産業マネージャー」に代替えされるが、それはソ連の企業管理者に相当する。ところで労働に対する資本の支配、剰余労働の搾取、階級対立がないとすれば、「企業管理者の独裁」は無用であったはずだ。この矛盾は、搾取や階級がないから民主的というソ連の虚構を完全に崩してしまう。

 

ショルカルは、「権力と特権をもった新しい階級の成立は・・・社会の道徳的退廃を最も確実に証明する」と言う(P97)。だが、はたして道徳の問題なのだろうか? だとしたら「新しい人間」の形成も道徳の涵養の問題だったのか? 「成長の限界」論の適用にしてもそうだが、キーワードに頼った安易な立論の気配を感じざるをえない。

 

 

 

●ショルカルの道徳論と、マルクスの「全体的に発達した個人」、「個人的所有」

 

マルクスは『資本論』の各所で、「全体的に発達した個人」といった言葉を使っている。例えば1413章「機械と大工業」の9節では、マニュファクチャーと大工業とを対比して言う。「1つの社会的細目機能の単なる担い手たる部分個人(職人―筆者)に置き換えるに、そのものにとっては種々の社会的諸機能が相互交替する活動様式であるような全体的に発達した個人を以てすることを、1つの死活問題たらしめる」、と。なぜなら「ブルジョアジーは、生産用具、したがって生産諸関係、したがって社会的諸関係を絶えず変革することなしには、実存しえない」(原注306)から。従って「労働の転変」がいまや圧倒的自然法則」となるから。また反面、労働者自身がこう証言する。「どんな労働でもできるというこうした経験により、私は、自分が・・・人間だということを感じています」(原注308)、と。そしてマルクスは言う。「工場立法の一般化が・・・大きい社会的な規模の結合労働への・・・転形を・・・促進する」、と。それは一面、工場体制の専制の一般化でもある。これに「全体的に発達した個人」と、「社会的な規模の結合労働」が対抗する。これをもってマルクスは、「新社会の形成的要素と旧社会の変革的契機とを成熟させる」と、この節をまとめるのである。

 

以前、『資本主義的生産に先行する諸形態』の古代ゲルマン人の「個人的所有」という概念にふれた(注4)。それは『資本論』124章末尾の「否定の否定」と結びつく。「(資本制的取得様式の否定は)私的所有を再建するわけではないが・・・資本主義時代に達成されたもの――すなわち協業や、土地および労働そのものによって生産された生産手段の共有――を基礎とする個人的所有を生みだす」。ここで個人的所有とは何かが問題だ。海老沢照明は『マルクス未来社会論と個人』(光陽出版社)で概略、こう説明している。①マルクスにとって労働者1人ひとりの発達が基本、②個人的所有とは対象に対し自己に属するものとして関わる関係行為、③基本となる「労働能力の正常な発達」とは労働過程の目的設定・計画立案・遂行能力の総合的発達、④それは支配・従属関係から自由な「労働の独立性」をも指向する、⑤(前2項を前提に)労働者相互の「自己に属するものとして関わる関係行為」が拡大、⑥それは「社会化された労働総体」へと拡大される――(主にP111以下)。この傾向は労働の本質に根ざし、また大工業の支配がそれを強いる。

 

ひるがえってショルカルの「道徳」には、ダイナミックな契機は何もない。彼は「社会の所有関係と道徳的進歩の間にある強制的な連関を信じていた」(P334)、とマルクス主義者を批判する。「生産力の発展が道徳的進歩を導くのではない」、というのはその通りだ。だが、「生産諸力の発展をストップさせるために道徳的進歩が必要」というのは、問題を最初に戻しただけである。結局、ありきたりな「定言命法」があるだけだ(P340)。いわく、①経済の成長と人口の増加の限界の承認、②平等の原理、③小さな動植物種のための空間。また「道徳」を「文化」に置きかえる言葉遊びをするだけに終わる(同)。ショルカルは何度も「社会の基礎は経済」と繰りかえしてはいた。しかし結局、経済的な見識が、すなわち唯物論的な見地や資本主義への批判が欠けていたのではないか。道徳や文化が歴史的な経済の発展段階に対応することは常識である。また「エコ社会主義」が資本主義の只中からしか産まれないとすれば、その物象化・物神性への批判が必須であった。それらの欠落は、はてしない循環論法に導く。また特に権力問題について混乱と曖昧さが顕著だ。「エコ社会主義者は革命の勃発なしに権力の座に就く」(P270)と言う一方、たびたびエコ社会主義を推進する「強力な国家」をほのめかす。しかしその形態等は「将来の世代の課題」(P282)だ。また、「非民主的な手段で権力を奪取し・・・経済成長政策の続行を試みる」(P283)勢力を予測する。それはエコ社会主義独裁か、ブルジョア独裁かを問うことに他ならないというのに・・・。

 

「新しい人間」を語れず、権力問題を曖昧化したショルカルは、自ら批判するエコ資本主義勢力のすぐ「左」に位置することで終わるだろう。

 

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(注1)ローマクラブのレポート『成長の限界』の発表は1972年。ダイヤモンド社で翻訳版がある

 

(注2)例えば水野和夫は、『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)で言う。「10年国債の利子率が2%を下回ると言うことは、資本家が資本投資をして・・・満足できるリターンが得られなくなったことを意味する」(P18)、と。『資本論』も「利潤率が、生産の拡張または制限を決定する」と言い、また不変資本比率の非常に高い鉄道の例をあげ、利潤率が利子率に収束すると述べている(3315章)

 

(注319182月に「出来高払い制」と「賃金格差表」の布告、3月には国有化企業の経営管理者などの任命があった。4月にレーニンは『ソヴィエト権力の当面の任務』を報告、①ブルジョア専門家の雇用、②企業管理者の独裁、③鉄の労働規律を提案した。内戦の渦中の「妥協」とはいえ、本質的な転換である。報告はプロレタリア独裁を強調する一方、資本主義的な労働力支配にもどる二面性をもつ。後者がその後のソ連を決めた

 

(注4http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/3-779d.html 参照。関連して「ebi3」という人のBlogについて触れたが、後にその主が市井の研究者である海老沢照明であると判った

 

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