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2016年4月 8日 (金)

「プロレタリア法」なるものは存在しうるのか―ロシアの事例から

 レーニンの『国家と革命』には、法または法律という言葉は、ほぼ1か所しかでてこない。「社会は、すべての市民が表面上平等となり・・・万人が法の前に平等となった。法律は・・・プロレタリアによって・・・市民(=ブルジョア)の財産が侵害されることのないように保護する。これが資本主義社会である」(国民文庫P171)。
 これを書いた1917年8月、10月革命は目前であった。また蜂起の機関である労働者・兵士代表ソビエトは、勝利のあかつきには憲法制定権力として立ち上げられるはずであった。「武器による批判」が問題になっているとき、法について長々と論ずる必要はなかったのだろう。だが革命の勝利の後、プロレタリア独裁から共産主義の高い段階に至る期間において、法の命運が問題となる。
●パシュカーニス『法の一般理論とマルクス主義』(日本評論社、注1)
 1930年前後に活躍したソ連の法学者パシュカーニスは、法の一般理論が成立可能だと考えている。「法の一般理論は、基本的な、すなわち最も抽象的な法律的概念の展開である」(P45)、と。ひるがえって「マルクス主義者の同志」の所説を批判する。彼らは法を「いろいろな利益間の闘争の結果として、あるいは国家的強制のあらわれとしてとりあつかう」。「(それに加えて)階級闘争の契機をいれれば十分であると思っている」(P51)、等々である。これはあたかも、冒頭に引用したレーニンの説明を不満とするかのようだ。パシュカーニスは、法的概念を内容面のみで考え、形態は問題としないことに異をとなえているのである。彼のモチーフはこうだ。「マルクス主義理論は・・・法的規制の実質的な内容だけでなく、特定の歴史的形態である法的規制そのものの唯物論的な説明もしなければならない(P52)。
 この「形態」という言葉に、パシュカーニスの法理論の方法が端的に出ている。すぐに思い出されるのは、マルクス『資本論』の冒頭、価値形態論だ(1巻1章「商品」)。あえて対比を試みてみよう。
 X商品A=Y商品B・・・X商品のA量は、Y商品のB量に値する(・・・「簡単な価値形態」)
 X犯罪A=Y刑罰B・・・X犯罪のA量は、Y刑罰のB量に値する(・・・刑法の場合。注2)
X犯罪Aが能動的な役割を演じ、Y刑罰Bが受動的な役割を演じる。この関係では、Y商品Bが価値形態の発展において貨幣に転じるように、等価形態にあるY刑罰Bはいずれ法律として発展し、「物象的形態」をとることになるだろう。形態を論ずることによって、対象を運動と発展において捉えることができる。
 マルクスは富の原基形態としての商品の分析から始めた。同じようにパシュカーニスは、法の二重性格、すなわち法が規範(べきである)と、権能(権利を主張・行使する能力)への分裂がおこるとする。また公法(憲法、刑法など)と私法(民法、商法など)との対立が起こる。そのさい彼は、「主観的法(私法)のほうが、第一次的なもの」(P102)とする。なぜなら、「国家の法律的理解は理論となることはありえない」(P98)からである。
 私法について彼が援用するのは『資本論』1巻2章「交換過程」だ。「物を諸商品として相互に連関させるためには、商品保護者たちは、自分の意志をこれらの物にやどす諸人格として、振舞わなくてはならぬ。・・・両者に共通な一つの意志行為に媒介されてのみ、自分の商品を譲渡することによって他人の商品を吾がものとするのである(青木書店版)。意志行為とは契約であり、意志関係とは端的に法的関係だ。したがって「基本的な法律的概念の弁証法的発展は・・・ブルジョア社会の・・・発展の現実的・歴史的過程を表現している」(P57)。――これが彼のめざす「法の一般理論」の枠組みであった。

●法的関係の死滅=「旧社会の母斑」を洗い流すこと
 ここで彼は、1つの反論に応答している(P59)。反論とは、「(パシュカーニスが)分析の基礎としている抽象は、ブルジョア法のもとでしか存在しない」、というものだ。「プロレタリア法については、これと違った一般的な概念を発見しなければならない」、と。これは一見、もっともな主張に思える。だが、それに対する彼の回答は辛らつだ。「プロレタリア法のために、あたらしい一般的な概念をもとめるという方針は・・・法の形態をその全盛を保障する一定の歴史的条件から切りはなし、それがたえず更新されうるものであることをのべ、これによって実際には法の形態の不滅を宣言しているのである」、と。「一定の歴史的条件」とは資本主義社会のことだ。何かが残るとすればブルジョア法である。すなわちパシュカーニスは、プロレタリア法の成立を否認する一方、ブルジョア法の死滅を論じようとしている。「価値、資本、利潤などのカテゴリーは発展した社会主義への移行とともに死滅するが・・・それがプロレタリア法のあたらしいカテゴリーとと交代することを決して意味しない。法の一般的死滅を、すなわち人々の関係から法律的な契機がだんだんと消えていくことを意味する」(P59~60)、と。
 マルクスは『ゴータ綱領批判』で、共産主義の第1段階について語っている。まず生産者は生産物を交換しないがゆえに、価値のカテゴリーや物象化は現れない。しかし第2に、個々の生産者は必要な控除の後、彼が社会に与えたものを正確に取り戻す。それは等価物の交換ではあるが、労働と消費手段の交換でしかない。第3に分配における生産者の平等の権利は「尺度の平等」、すなわち唯一労働時間で測られることにある。またレーニンは『国家と革命』で、等価交換について次のように述べる。「第一段階の共産主義のもとには『ブルジョア的権利の狭い限界』が残っている・・・消費物資の分配についてのブルジョア的権利は、もちろん、不可避的に、ブルジョア国家をも前提としている。なぜなら、権利というものは権利の基準の遵守を強制できる機関なしには、ないも同然だからである」、と。二人の所説には何の幻想もない。
●権利―義務関係が消え、法も国家もない社会をめざして
 人びとの関係から権利―法律ー国家という概念が消えていくことは、最終的には何をもって可能となるのだろうか。「共産主義のより高い段階に」についてマルクスは語っている(『ゴータ綱領批判』)。「分業の下における個々人の奴隷的依存、それとともにまた精神的労働と肉体的労働との対立が消滅した後、労働が単に生活手段ではなくて、第一の生活の必要にさえなった後、個々人の全面的発展とともにまた生産力が成長して協同組合的富のすべての源泉が横溢するに至った後」――その時はじめて狭隘なブルジョア的権利の地平は全く踏み越えられるというのである。ここで生産力の発展とは、単に物的な意味でのアウトプットを意味しない。まさに個々人の全面的発展こそが自己目的であり、労働の意味が変わり、コミューンの富も全面的であろう。パシュカーニスは本書に編み込まれた別の論文、『国家と法の理論』で次のように述べている。「階級が消滅し、労働が第一義的な生活の必要にかわり、『各人はその能力におうじて、各人はその必要に応じて』という原則が作用している共産主義社会は法を必要としないだろう」(P228)、と。そのとき国家は、法とならんで死滅する。
 パシュカーニスの理論は、法の形態を交換過程における意志から導いたことが「基本的欠点」とされた。とすれば、意志の物質的基盤をどこに求めるのか。彼の論敵であるストゥチカは生産関係に求めたが、貧弱にも、法を「支配階級の利益と、組織された権力によるその保障に対応する関係の体系」(P84)としか規定できなかった。一方、パシュカーニスが、ソビエト法を国家とともに死滅すべき過渡期のブルジョア法と位置づけたことは、「国家転覆をめざす無政府主義者」とも指弾された。彼は1937年、トロツキストとして粛清された。名誉回復されたのはスターリン批判の後のことだ。
(注1)1927年の第3版の訳書。58年出版。「日本の古本屋」で1冊だけ販売されていた。
(注2)このような検討が成立する根拠は、「刑法は・・・等価交換の変種の一つを・・・体現しているときにはじめて、法律的上部構造の構成部分となる」(P187)。

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