書籍・雑誌

2015年2月 1日 (日)

S・ショルカル『エコ資本主義批判』(月曜社)の提起と、その限界

ショルカルは言う。「来るべきパラダイムは、成長の限界のテーゼにもとづいている」(P35、注1)、と。それは「エコ資本主義」に堕したドイツ緑の党に向けられた批判の言葉だ。それらの傾向は、「80年代半ばまでには、産業社会を前提としながらもそれをエコロジー的に改造ないし現代化するという考えが定着した。これはさらに、持続可能な成長という新たなアイデアで強化された」(P16)、と。

 

私の関心事は、「資本主義の成長の限界を画するものは何か」ということである。1つは、ローザの『資本蓄積論』の見解だ。彼女は、全世界が資本主義化されたとき蓄積運動は止まり、資本主義の生涯は終ると言った。投資と労働力動員の限界論である。またマルクスは『資本論』33編で「利潤率の傾向的低落の法則」を論じている。資本の有機的構成の高度化がもたらす利潤率の低落の限界だ。資本主義の規定的・推進的動機が失われる。実際に近代経済学者も、70年代中期に始まった利潤率の限界的な低落の傾向を論じている(注2)。それらにショルカルが、何を付け加えてくれるのかが問題だ。

 

 

 

●閉鎖系としての地球=鉱物資源の限界と、マルクスの再生産表式

 

ショルカルの所説は、おおむねレーゲンの『経済学の神話』(東洋経済新報社)に依拠している。レーゲンは、「経済学者たちが過去100年にもわたって・・・機械論的な認識論に、頑固なまでに執着してきた」(P57)ことを批判する。機械論的認識論とは、時計の振子が左から右、右から左へと永久回帰運動を続けるイメージだ。力学的なモデルである。それが社会・経済に投影されて、資本主義の永遠性のイメージを醸し出してきた。この点でレーゲンは、近経学者もマルクスも区別はないと批判する。

 

レーゲンはエントロピー論者だ。エントロピーの簡単な定義は、「ある熱力学系の展開の中の一定の時点における利用不可能なエネルギーの量を示す指標」(P68)――。例えば冷えた低圧の蒸気は機関車のピストンを動かせないが、それはエントロピーが最大化した状態だ。レーゲンは、「エントロピー法則はあらゆる自然法則のなかで、最も経済学的」(P72)、「物質の世界もまた不可逆的な変化を受け・・・るということを認めた唯一の自然法則」(P71)という。そのとき、「地球は開放系ではなく閉じた部分系であり、すなわち環境とエネルギーだけを交換する系」(P165)であることが問題だ。すなわち宇宙との間で太陽エネルギーと廃熱の交換は行っても、物質すなわち鉱物資源などの追加はないのである。リサイクルも根本的には「危険な空想」(P167)の1つだと言う。

 

レーゲンのマルクス批判に戻ろう。『資本論』23202節に有名な単純再生産の表式がある。

 

Ⅰ)4000c+1000v+1000m=6000:生産手段。Ⅱ)2000c+500v+500m=3000:消費手段(c:不変資本、v:可変資本、m:剰余価値)――というものである。生産手段と消費手段の両生産部門間において、再生産のサイクルが回るという内容だ。確かに以下の記述はある。「この運動は、価値補填であるばかりではなく、質量補填であり、したがって・・・その使用価値、その質量的姿態によっても制約されている」(青木版P515)、と。ここでレーゲンの言う「物質」も問題にされているかのようだが、実際は価値分析に終始している。「物質」が軽視されることと、表式の「予定調和的」な循環により、レーゲンの批判は当たっているように見える。だが『資本論』は、資本の運動法則それ自体がいかにしてその転覆を必然するか、という意図で書かれている。それゆえ運動の実体としての価値分析に傾くのであって、近経学者との同列視は不適切であろう。

 

 

 

●「成長の限界」を例証しようとした、ショルカルのソ連論の失敗

 

さて、ショルカルである。その本のアドバンテージは、ソ連社会主義の崩壊の総括をベースにしていることにある。基本タームは「成長の限界」と「新しい人間」だ。

 

「成長の限界」の点では、ショルカルの細かい資料紹介は省く。彼は最終的には、アガンベギャン(ソ連のエコノミスト)の説に拠っているようだ。というのは以下のような内容である。「1次産品と燃料に関しては、たしかにソヴィエト連邦は十分な資源を有していた。しかし・・・その生産費用は急速に増加していた。・・・ソヴィエト連邦にとって、十分な量の輸入は困難だった」(P71)。生産費用の増加は、ソ連の厳しい気候、低い技術力と生産力、労働力コストの上昇による。「輸入が困難だった」点では、旧植民地本国が有する新植民地主義の基礎を欠いていたところに求める。「基礎」とは、①地球上の資源に対する支配力、②経済的・テクノロジー的・経営的専門知識、③世界規模の商業的接触――に対する支配力の差異という内容だ(P7174)。環境破壊の結果がそれに輪をかけた。とはいえこのような説明は、ソ連の場合に限らない。気候・環境が厳しく、資本の原始的蓄積がなく、それでも産業化―資本主義化をめざす第三世界の国々が想いおこされる。両者の類似性は、ショルカルも認めていた(P78)。「成長の限界」、すなわち資本蓄積による利潤率の低下というよりは資本の不足であり、「従属理論」に則した分析が適切だろう。

 

「新しい人間」についてショルカルは、シニヤフスキー(ソ連の作家)を引用している。「『新しい人間』の理念は、ソヴィエト文明の隅の首石だった。これなしでは、後進国において社会主義の建設は不可能である」(P80)。これは後進国に限らない。ところが、①数年で「新しい人間」は共産党員の別名となった。②民主制は搾取がないことにすり替えられた。③平等は、出来高払い賃金と所得格差によって汚された(注3)。特に、④「単独責任性」の問題が重要だ(P89)。これはレーニンが「戦時共産主義」段階で、「企業管理者の独裁」を提案したことに由来する。それは産業における官僚制のスタートラインであり、また国家―社会―経済の官僚化と相即する。201月に実際に導入されたこの制度は、実はマルクス『資本論』の指摘に背反する。「監督および指導の労働が対立的性格から―労働に対する資本の支配から―発生し、したがって、階級対立にもとづくあらゆる生産様式と資本制的生産様式とに共通する」(3523章)。資本家の監督・指導労働は、後に「産業マネージャー」に代替えされるが、それはソ連の企業管理者に相当する。ところで労働に対する資本の支配、剰余労働の搾取、階級対立がないとすれば、「企業管理者の独裁」は無用であったはずだ。この矛盾は、搾取や階級がないから民主的というソ連の虚構を完全に崩してしまう。

 

ショルカルは、「権力と特権をもった新しい階級の成立は・・・社会の道徳的退廃を最も確実に証明する」と言う(P97)。だが、はたして道徳の問題なのだろうか? だとしたら「新しい人間」の形成も道徳の涵養の問題だったのか? 「成長の限界」論の適用にしてもそうだが、キーワードに頼った安易な立論の気配を感じざるをえない。

 

 

 

●ショルカルの道徳論と、マルクスの「全体的に発達した個人」、「個人的所有」

 

マルクスは『資本論』の各所で、「全体的に発達した個人」といった言葉を使っている。例えば1413章「機械と大工業」の9節では、マニュファクチャーと大工業とを対比して言う。「1つの社会的細目機能の単なる担い手たる部分個人(職人―筆者)に置き換えるに、そのものにとっては種々の社会的諸機能が相互交替する活動様式であるような全体的に発達した個人を以てすることを、1つの死活問題たらしめる」、と。なぜなら「ブルジョアジーは、生産用具、したがって生産諸関係、したがって社会的諸関係を絶えず変革することなしには、実存しえない」(原注306)から。従って「労働の転変」がいまや圧倒的自然法則」となるから。また反面、労働者自身がこう証言する。「どんな労働でもできるというこうした経験により、私は、自分が・・・人間だということを感じています」(原注308)、と。そしてマルクスは言う。「工場立法の一般化が・・・大きい社会的な規模の結合労働への・・・転形を・・・促進する」、と。それは一面、工場体制の専制の一般化でもある。これに「全体的に発達した個人」と、「社会的な規模の結合労働」が対抗する。これをもってマルクスは、「新社会の形成的要素と旧社会の変革的契機とを成熟させる」と、この節をまとめるのである。

 

以前、『資本主義的生産に先行する諸形態』の古代ゲルマン人の「個人的所有」という概念にふれた(注4)。それは『資本論』124章末尾の「否定の否定」と結びつく。「(資本制的取得様式の否定は)私的所有を再建するわけではないが・・・資本主義時代に達成されたもの――すなわち協業や、土地および労働そのものによって生産された生産手段の共有――を基礎とする個人的所有を生みだす」。ここで個人的所有とは何かが問題だ。海老沢照明は『マルクス未来社会論と個人』(光陽出版社)で概略、こう説明している。①マルクスにとって労働者1人ひとりの発達が基本、②個人的所有とは対象に対し自己に属するものとして関わる関係行為、③基本となる「労働能力の正常な発達」とは労働過程の目的設定・計画立案・遂行能力の総合的発達、④それは支配・従属関係から自由な「労働の独立性」をも指向する、⑤(前2項を前提に)労働者相互の「自己に属するものとして関わる関係行為」が拡大、⑥それは「社会化された労働総体」へと拡大される――(主にP111以下)。この傾向は労働の本質に根ざし、また大工業の支配がそれを強いる。

 

ひるがえってショルカルの「道徳」には、ダイナミックな契機は何もない。彼は「社会の所有関係と道徳的進歩の間にある強制的な連関を信じていた」(P334)、とマルクス主義者を批判する。「生産力の発展が道徳的進歩を導くのではない」、というのはその通りだ。だが、「生産諸力の発展をストップさせるために道徳的進歩が必要」というのは、問題を最初に戻しただけである。結局、ありきたりな「定言命法」があるだけだ(P340)。いわく、①経済の成長と人口の増加の限界の承認、②平等の原理、③小さな動植物種のための空間。また「道徳」を「文化」に置きかえる言葉遊びをするだけに終わる(同)。ショルカルは何度も「社会の基礎は経済」と繰りかえしてはいた。しかし結局、経済的な見識が、すなわち唯物論的な見地や資本主義への批判が欠けていたのではないか。道徳や文化が歴史的な経済の発展段階に対応することは常識である。また「エコ社会主義」が資本主義の只中からしか産まれないとすれば、その物象化・物神性への批判が必須であった。それらの欠落は、はてしない循環論法に導く。また特に権力問題について混乱と曖昧さが顕著だ。「エコ社会主義者は革命の勃発なしに権力の座に就く」(P270)と言う一方、たびたびエコ社会主義を推進する「強力な国家」をほのめかす。しかしその形態等は「将来の世代の課題」(P282)だ。また、「非民主的な手段で権力を奪取し・・・経済成長政策の続行を試みる」(P283)勢力を予測する。それはエコ社会主義独裁か、ブルジョア独裁かを問うことに他ならないというのに・・・。

 

「新しい人間」を語れず、権力問題を曖昧化したショルカルは、自ら批判するエコ資本主義勢力のすぐ「左」に位置することで終わるだろう。

 

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(注1)ローマクラブのレポート『成長の限界』の発表は1972年。ダイヤモンド社で翻訳版がある

 

(注2)例えば水野和夫は、『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)で言う。「10年国債の利子率が2%を下回ると言うことは、資本家が資本投資をして・・・満足できるリターンが得られなくなったことを意味する」(P18)、と。『資本論』も「利潤率が、生産の拡張または制限を決定する」と言い、また不変資本比率の非常に高い鉄道の例をあげ、利潤率が利子率に収束すると述べている(3315章)

 

(注319182月に「出来高払い制」と「賃金格差表」の布告、3月には国有化企業の経営管理者などの任命があった。4月にレーニンは『ソヴィエト権力の当面の任務』を報告、①ブルジョア専門家の雇用、②企業管理者の独裁、③鉄の労働規律を提案した。内戦の渦中の「妥協」とはいえ、本質的な転換である。報告はプロレタリア独裁を強調する一方、資本主義的な労働力支配にもどる二面性をもつ。後者がその後のソ連を決めた

 

(注4http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/3-779d.html 参照。関連して「ebi3」という人のBlogについて触れたが、後にその主が市井の研究者である海老沢照明であると判った

 

2013年10月 1日 (火)

【書評】ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』―ナショナリズムと差別の問題をめぐって②

GHQの占領期をあつかった上下巻900ページのこの大著で、ジョン・ダワーは、日本人の感情や言葉の微妙な意味合いを重視している。占領政策を規定した「初期対日方針」は、①日本が再び米国や世界平和の脅威とならないこと、②米国の目的を支持すべき政府を樹立すること――を柱としていた。それに基づいてGHQは、「政治、社会、文化、経済の網の目を編みなおし、しかもその過程で一般大衆のものの考え方そのものを変革する」(上P85)、という企てに取りかかった。一国の国民性を変え、国家と国民の関係を再編成するというのだ。上からの革命である。とすれば大衆の感情や言葉とその変遷を、膨大な公刊物や映像・画像、人々の生活や運動の中から拾い集める方法は、極めて適切だったことになる。

私はこのかん、反原発「国民運動」への批判から始め、フランス革命にさかのぼって国家―国民関係の法的・社会的イデオロギーを検討してきた(注1)。根本的なテーマは差別・排外主義の問題だった。今回、ジョン・ダワーに拠りながら、15年戦争と占領期に歴史的に形成されてきたこの問題を考えてみたい。

 

●新植民地主義的=家父長的なGHQの占領政策

いま「15年戦争と占領期」、と言った。それはジョン・ダワーの枠組みである。「1930年代から(対日平和条約と安保条約が発効してGHQが廃止された―筆者)1952年までずっと、日本は基本的には軍事支配の下にあったともいえる」(上P12)。天皇はといえば75年に、より長い射程でこう述べている。「戦争が終わってから、国民はいろいろな意見を述べてきました。しかし広い視野からみれば、戦前と戦後で変化があったとは私は思いません」(下P414)。2人の説の「超訳」を試みれば、軍政のもとで侵略戦争も平和憲法制定もあり、それは安保条約に帰結し、敗戦を経てなお戦犯=天皇(制)は生き延びた――ということであろう。

戦勝4カ国の分割・直接統治となったドイツに対し、アメリカ一国の支配下におかれた日本占領の形態は異なっていた。それは既存の政府組織を通じて間接的に行われた。「初期対日方針」は言う。「最高司令官は、米国の目的達成を満足に促進する限りにおいては、天皇を含む日本政府機構および諸機関を通じてその権限を行使すべし」――と。「そのため、降服以前の日本の政治体制のなかでも、もっとも非民主的であった制度を支持することにならざるをえなかった。官僚制と天皇制である」(上P274~)。これが占領政策の成功の秘訣であった(注2)。GHQ―天皇―官僚という権力、「上からの革命」というやり方は、権威主義に馴らされた日本人に適合的だったとジョン・ダワーは言う。「『朝日新聞』さえも、カトリックのように、マッカーサーを『我らの父』と呼んでいた」(上P309)。そのなかで「占領は、かつての西欧列強が世界に覇権を拡張していく時に伴っていた古い人種差別的な家父長温情主義が新しい形をとって現れたにすぎなかった」(上P273)。マッカーサーは退任時の議会証言で、日本人を「12歳の少年」と呼びさえしている。

敬意と服従の対象を天皇からマッカーサーに切り替えた日本人に対し、ジョン・ダワーはこう懸念する。「こうした行動様式は、『民主主義』という新しい流行が旧来の日本的な従順さの上に新しい衣装をまとっただけのものでしかないのではないか」(上P300)、と。また同時に、「日本の『進歩的文化人』や日本共産党は・・・天皇制民主主義の実践者であった」(上P319)、とも言う。「天皇制民主主義」とは、ジョン・ダワー独特のタームだ。46年頭のころの調査で、天皇の地位の護持を主張する人は16%に過ぎなかった。それに対し天皇は、46年元旦の詔書で明治天皇の「5カ条の誓文」を引用して統治の一貫性を主張する一方、自らの「神格」を否定することのみで退位の圧力を回避した。そして「保守派エリートはGHQと協働し、天皇を『人間』へと変身させるための大々的な宣伝活動に乗り出した」(下P85)。33000キロにおよぶ「行幸」だ。そして新憲法は明治憲法の「改正案」として、天皇によって国会に提出される。「それは実際は天皇自身からの贈り物として国民に与えられた・・・『上からの革命』と『天皇制民主主義』は、この儀礼を通じて融合した」(下P171)、というのがジョン・ダワーの見解だ。

 

●「科学に敗れた」という敗戦の総括と、民衆の被害者意識

一方45年段階から、学生自治会の創設、消費者運動の興隆、労組の結成が相次いだ。4651日のメーデーには250万人が参加した。517日の食料メーデーでは25万人が皇居前広場を埋めたが、これをジョン・ダワーは「思想的に見れば奇怪な矛盾のかたまり」と評する。なぜなら、「民衆の抗議行動が天皇へ上奏する形をとったことにある。・・・決議文では、天皇を『君主』および『最高権力者』と位置づけており、国民の意思にそった適切な措置をとるよう天皇に恭しくお願いしていた」(上P356)、と。ところがマッカーサーは「行きすぎた行為」と警告、反共キャンペーンにうって出る。これには学生1000人がデモで対抗、翌年には全学連を結成する。労働戦線も46年に社会党系は総同盟、共産党系は産別会議を結成した。産別は生産管理闘争を展開、47年「21ゼネスト」を構えたがGHQに禁圧された。

このような構造と運動のダイナミズムも背景にしつつ、どのようなイデオロギーが形成されてきたのだろうか。まず敗戦直後の20日の『朝日新聞』は「科学立国へ」という記事を掲げ、「われらは敵(アメリカ―筆者)の科学に敗れた」と総括した(注3)。28日には、首相となった東久邇親王が「一億総懺悔」を主張した。それは天皇一人を除く集団的責任論である。前者のイデオロギーは原爆の威力にけおされたものだが、より重要な点は、アジアに向けた植民地主義的な戦争の敗北という観点を抜かしていることだ。アメリカの検閲のなかでも「『大東亜戦争』という呼称が禁じられ、代わりに『太平洋戦争』とよばなければならなくなった」(下P217)。検閲官は「(41年開戦の―筆者)東条の役割は誇張されている、『戦争責任の問題』の核心は中国に対する侵略にある、といった批判を抑え込んでいた」(下P351、注4)。戦犯裁判でアジア人の判事は11人中3人、A級戦犯はほぼ41年の責任だけを問われた。30年代以来のアジア侵略は、戦勝国との間の植民地再分割戦でもあったからだ。憲法制定過程でも、GHQ案の権利主体としての人民(People、注5)は「国民」と書き換えられた。「保守派が『国民』という言葉を使ったのは、人民主権の意味合いを弱めるだけでなく、国家が保証する権利を日本国籍を持つ人だけに制限するためでもあった」(P179、注6)。彼らは、国民とは「あらゆる国籍の人々」を意味するとGHQに嘘をつき、在日外国人の排除に成功した。

キリスト者にして東大総長だった南原繁の説を紹介しよう。彼は帰らなかった学徒を「国民的罪悪に対する贖罪の犠牲」と呼んだ。他方、大学の戦争加担の責任にはいっさい口をつぐんだ。このロマン主義的美化についてジョン・ダワーは、「南原の編みだしたこの方式は、多くの日本人がさまざまに使える無宗教の『祈祷文』になった」(下P320)、という。その底にある「騙された」という受動態の動詞、「このぬめぬめしたことばを自分たちの個人的責任を洗い流す洗剤として使った」(同)。大衆的な意味で、キーワードは「被害者意識」だと彼は言うのである。このイデオロギーを戦後の平和運動のなかに見てみよう。

 

●アジア人民への加害の忘却と、空疎な「民主」と「平和」の運動

 犠牲者の神話化や、自分たちが踏みにじった相手の忘却といった「狭量な意識の危険性」は、平和運動が始まった46年頃にはよく認識されていたという。ところが「最終的には、平和意識をより普遍的に構築するためには、その基礎として犠牲者意識を強調するしかない」(下P341)、という結論になった。左翼的知識人たちは犠牲者意識=平和意識を個人から国、国際レベルへと同心円的に拡大することを構想したらしい。個人の「主体性」をめぐる議論も展開されたという。だが「犠牲者」にしろ「主体」にしろ、戦争責任問題や普遍的な平和運動への展開は、その内向きに閉じた構造において原理的にありえなかったのではないか。数千万とも言われるアジア人の虐殺や、軍隊「慰安婦」の問題もすっかり忘れ去られた。

 吉田裕も、「民衆意識のありようの中には主体的な戦争責任論の欠落とでもいうべき状況がみられた」(注7)、と述べている。そして民主主義と平和主義を確立していくことが、戦争責任問題を解決することであるとすり替えられていく。吉田は米国務省の報告書から、「迅速な国家再建のためには国民的統一こそが不可欠であるとする考え方に従属していくようになった」、というくだりを引用している。彼の結論はこうだ。「退行的な戦争責任論の方向に向かわないための内的な歯止めは、恐らく他民族に対する加害責任の自覚にあったのではなかろうか」。

 実に問題の核心はそこにある。自らを「被害者」と位置づけることによって、アジアの人々への「加害者」性が、そしてアジアの民衆そのものが忘却された。戦争責任を背負って国家の方向を民主主義と平和主義に見定めるとするなら、それを自ら具現化する責任もあったはずである。ところがGHQ―天皇―官僚という権力機構には手をふれず、憲法を自ら制定する革命的主体として立ち上がることもなかった。民衆は、GHQと天皇によって与えられた民主と平和の憲法の「受益者」、後には朝鮮戦争の特需と冷戦体制のもとで経済成長の「受益者」になったと言うべきだろう。

 敗戦直後、在日朝鮮人連盟が結成された(注8)。4710月の綱領では、「我らは帝国主義残滓と封建的異物を清掃し、進歩的民主主義国家建設に献身を期す」(注9)とうたっている。彼らは日本の人民として在日を選び、「国家建設」に携わろうとしていた。それを拒否したのが50年の国籍法であり、51年の出入国管理令であった。さかのぼって48年には「阪神教育事件」が勃発している。政府はGHQの指示により朝鮮学校閉鎖令を示達した。当然、大衆的な抗議行動が起こった。GHQは戦後唯一の非常事態宣言を出し、米憲兵司令部が全警官を指揮下において鎮圧、7,295人(公安資料)が検挙された。これが大きな転機となった。50625日、朝鮮戦争が勃発する。8月には警察予備隊が発足、保安隊・自衛隊へとつながる。その過程で、日本人による在日朝鮮人連帯、朝鮮戦争反対の顕著な闘いがあったとは言えない。在日朝鮮人は忘れられるどころか、差別・排外の対象へと固定化された。結果、差別と軍隊を抱え込む「民主」と「平和」の憲法の抜け殻が残ったと言える。与えられたものは当然、容易に奪い返されるのである。

 

●戦時総動員のメカニズムを埋め込まれた戦後社会

 「占領当局は、『総力戦』に向けた戦時総動員のメカニズムの大部分を温存した」(下P375)、とジョン・ダワーは言う。GHQは財閥の持ち株会社を解体したが、大企業が実際に分割されたのは11社に過ぎなかった。逆に政府は「傾斜生産方式」をとってエネルギーと重化学工業部門に融資を集中、「巨大資本の再統合と経済計画の・・・基盤が整えられた」(下P385)。48年暮れに来日したドッジの「経済安定9原則」は、超均衡予算を強制して労働者の生活を圧迫、レッドパージによって闘いの弱体化を計った。その他方、レートを1ドル360円に固定して輸出型の産業構造を用意し、省庁を再編して「未曾有の力を誇る通商産業省」(P391)を誕生させた。財閥の代わりに系列が生まれた。またドッジは、「日本の保守的大企業集団や、日本の官界および政界における彼らの同盟者たちと、合衆国のトップレベルの高官とを、戦後初めてパイプで結んだ」(コーエン)という。この構造をもって、日本は朝鮮戦争と冷戦の「恩恵」を被ることができた。

 55年の『経済白書』は、「もはや戦後ではない」と宣言した。それは経済復興のみならず、戦後のイデオロギー闘争の収束をも指していたかもしれない。日本人は「民主」と「平和」を語ることによって、戦争責任をうやむやにした。「被害者」意識から脱することができず、アジアの人々の15年にわたる侵略戦争の苦難とそれへの抵抗、そして新たな冷戦と熱戦を見て見ないふりをした。在日アジア人と同じ人民として協働するのではなく、「国民」の枠から排除して差別することにした。そして「国家再建」を目指して、国家―国民の背中合わせというイデオロギー構造を選びとってきたのではないか。「科学に負けた」という敗戦の総括は経済成長の強迫観念につながったが、同時に原子力の「平和利用」という国民的な運動にも誘導された。差別の固定化と成長イデオロギーは歴史的意味で同根だ。また今日の反/脱原発運動における「自然エネルギー採用による成長」論、「国民運動」としての展開という主張の危うさは、戦後の歴史的文脈でも検証されるべきだろう。「被害者」という立場を安易に強調することも、慎重に考えてみる必要があるかもしれない。

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(注1http://yo3only.cocolog-nifty.com/log/2013/06/post-cff8.html および

http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e3c9.html 参照

(注2)イラク戦争後にアメリカは、日本占領成功の再現を目指すと言ったが、再現できるはずはなかった。なぜなら、天皇に対応するフセインを殺し、官僚をすべて追放したからである

(注3)天皇が皇太子・明仁にあてた99日の同趣旨の手紙があるが、『朝日新聞』の影響が明らかだ

(注4)少しずれるが、915日の『朝日新聞』で、保坂正康が山本武利『GHQの検閲・諜報・宣伝工作』の書評をしている。「当初の事前検閲より後に幾分ゆるやかになる事後検閲」と書いているが、事後検閲は出版物の回収を意味し、損害は絶大だった。共産党は49年、新聞用紙の配給を77%削減された(下P244

(注5)アメリカ合衆国憲法は、我ら人民は(We the people)という言葉で始まる

(注6195054日施行の「国籍法」を指す。51111日には「出入国管理令」も施行された

(注7)吉田裕「占領期における戦争責任論」(『一橋論叢』1052))

 http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12550/1/ronso1050200210.pdf

(注8)全在日朝鮮人を包含。南で李承晩政権が成立するにともない、4610月に在日居留民団が分裂

(注9)『在日朝鮮人団体重要資料集』75年、湖北社

2013年7月29日 (月)

【書評】西川長夫『<新>植民地主義論』―ナショナリズムと差別の問題をめぐって

私がBlogに掲載した文章、「『国民運動としての反原発運動』に、“まともな批判”を試みる」(注1)に、崔勝久がコメントを書き込んだ。「(野間易通は)西川長夫をしっかりと読むべきですね」(注2)、と。西川長夫は立命館大学名誉教授、ルイ・アルチュセールの『マルクスのために』や『再生産について』(ともに平凡社ライブラリー)の訳者である。崔の念頭にあった本は、最新刊の『植民地主義の時代を生きて』(13年、平凡社)と思われるが、残念ながらかなり高価だ。そこで西川の言説を集大成するこの本に代え、手に取りやすい『<>植民地主義論―グローバル化時代の植民地主義を問う』(06年、同)をお薦めする。それは「911」後の論集だ。「グローバル化時代の植民地主義というコンテクストのなかに置いて、国内植民地論に別の角度から照明を当ててみたい」(P19)、というコンセプトに基づいている(注3)。

 

●「権利において平等な個人」という、ブルジョア国家と資本主義の擬制

崔は上記のコメントのなかで次のように述べている。「結論的に言うと、原発体制は植民地主義であり、それは国家と資本が作り出したグローバリズムだということです」、と。直観的にはその通りだと思う。だがこの認識を共有し、「反原発運動は本質的に植民地主義と対峙するものであり、反核・反戦・反差別を謳うもの」という闘いの質を達成するためには、いくつかステップを踏む必要がありそうだ。すなわちナショナリズムや、それを1つの根拠とした差別の歴史的・社会的な根源の問題である。

私は先の文章で以下のように述べた。「新自由主義が世界をおおう今日、歴史は一回りしてフランス革命当初の状況が再現されている」、「(野間の)『国民』概念は、フランス革命時のブルジョアに近い」、と。近代国家と資本主義の歴史の幕を開けたフランス革命は、その性格をどう自己規定したか。1789年のフランス人権宣言(注4)は、ルソーの「自然人」という空想的概念と「社会契約」論を下敷きにする。そして「権利において平等な個人」(法的人格=法人)を想定し(第1条)、その「自然的な諸権利の保全」を目的とするものとして国家を規定し(第2条)、法人の権利は「いかなる団体も、いかなる個人も」侵害できない(第3条)とした。いかにももっともな話に聞こえる。だがそこで決定的に欠落しているのは階級の問題だ。資本も1つの法人として個々人に並び立たされ、国家は法人の政治的結合と擬制されてバラバラな個人=法人を直接に束ね、国家と法人とのあいだに「中間団体」が介在することを拒否した。なぜなら、いかなる団体も他人の権利を侵害してはならないからである。それゆえ91年のル・シャブリエ法は、あらゆる結社を、労働者の団結やストライキを、刑事罰をもって禁止した。ここに国民を束ねるナショナリズムと、「国民である/でない」を原初の基準とした差別・排外主義のバリエーションの法的な根源が生成した(注5)。そしてそれは、生産手段を独占するブルジョアと、労働力の他には売るものを持たないプロレタリアとが、それぞれ商品所有者として向きあう資本主義的生産様式に物質的基盤をもっていた。

西川はその事情を、「国民は広大な『最初の植民地』であった」と捉えている。フランス革命に対応するのは日本の明治維新だ。「開国を余儀なくされ・・・日本は、欧米列強をモデルとして、『万国公法』の論理をわがものとし・・・独立を守ろうとする。だが『文明開化』とは列強の植民地化のイデオロギーであった『文明の使命』を自国民に向けることであり・・・さらに文明化した日本と文明化されるべき隣国、あるいは文明化された中央と文明化されるべき地方との関係に置き換えられる」(P26~27)、と。

 

●植民地主義の再生産装置である国家と、植民地主義的な国民

「国家が植民地主義の再生産装置である限り、国民は多少とも植民地主義者であり続ける」(P28)と考える西川は、植民地主義の再生産のシステムと、その産物としてのナショナル・アイデンティティを問題にする。通常、国家の要件は①領域(国境の存在)、②国家権力、③国民――の3つだ。西川はそれに、④国家と国民を支配し統合する国家装置と諸制度、⑤世界的なシステム――を付け加えた。この④は、西川が翻訳したアルチュセール『再生産について』の下巻に収録された、「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」に依拠する。それが画期的なのは、「私的領域と呼ばれる領域を国家のイデオロギー諸装置(・・・宗教、教育、家族・・・)という名のもとに国家論に引き入れた」(P204)ことにある、と西川は言う。

アルチュセールは、「<国家の抑圧装置>の「盾」のもとで生産関係の再生産そのものを大部分保証するのは、<国家のイデオロギー諸装置>である」(P197)、と両者の関係を位置づけた。前者は暴力的な公権力の行使であり、後者は私的なイデオロギー装置の問題だ。また「主体というカテゴリー」(P228)に注意を呼びかける。それはなぜ人々はブルジョア・イデオロギーを受容するのか、という問題に関係する。答えは「イデオロギーは主体としての諸個人に呼びかける」(P227)である。「法的イデオロギーは、『権利の主体』という法的なカテゴリーを採用して、人間は本来主体である、という観念をつくりあげ」(P287の注141)、主権国家=国民主権という相互関係において、イデオロギーの「主体的」な受容と血肉化を押しつけるのである。

西川は、国家は世界的な相互関係において成立・運動することを前提に、新植民地主義を、①植民地なき植民地主義、②労働力移動と格差の拡大、③グローバル・シティ――をキーワードに定義する。グローバル・シティは、「世界の多国籍企業のネットが結ばれる結節点であり、そこには資本や権力が集中しています。・・・同時に世界の移民労働者に開かれた都市でもあります」(P54)、と。それを中心に回る世界システムは、都市部が膨大な貧困層を抱える一方、あらゆる国で都市部と周辺部の格差が拡大する構造として描かれている。国内植民地は、帝国主義国と低開発国、その両者の都市部と地方という格子構造に位置する。その搾取と収奪のうえに、グローバル・シティを結び目とした世界のネットワークが成立する。このような構造であるグローバリゼーションの結果、「資本と国家の矛盾、あるいは国家それ自体が隠蔽してきた矛盾が一挙に露呈し、公/私をめぐるさまざまな領域の解体・再編が進行している」(P160)、という。

 

●西川が踏み込まなかった、資本主義が生産する基盤的なイデオロギー

この「植民地なき植民地主義」がもたらすものは何だろうか。西川は、「戦後、私たちはなぜ植民地問題を私たちの考察の正面にすえて深く考えることができなかったのか」(P9)、と問う。戦後の日本は、①すべての植民地を放棄し、②非武装を宣言し、③650万人にのぼる植民地からの引揚者は沈黙を守った。そしてGHQは在日朝鮮人らを、占領下の秩序を乱す危険な存在として支配管理すべき対象とみなす。「こうして日本人の植民地の記憶と植民地体験は密封され、戦後日本社会の意識の外に追い出されてしまうことになりました。あるいは植民地体験の全体から切り離されて、被害者意識のみが強調されることになりました」(P46)。この「植民地忘却」はGHQの占領政策の目標であり、ジョン・ダワーはそれを「新植民地主義的革命」(『敗北を抱きしめて』)と呼ぶ、と西川は指摘する。その結果は、沖縄の軍事基地化と韓国の独裁政権を与件とする、日本の新植民地主義的なアジア侵出であった。そのイデオロギーは私たちに内面化され、「植民地忘却」とそのコインの裏側の差別・排外主義が昂進することになる。

ところで西川が<国家のイデオロギー諸装置>1つである「文化」について多面的に論じ、植民地主義/新植民地主義の様々な言説や運動に触れている。基本スタンスは、「国民国家の成立と軌を一にしている文化の概念は、nationの概念とよく似た構造をもっている」(P80)、という観点だ。その観点から多文化主義など新植民地主義への融和論に疑義を呈し、クレオール主義(注6)についても「被害者の方から差し伸べられた和解の思想」(P100)だと批判した。西川はまた一方で、ネグリの「マルチチュード」を念頭に置いたバーバの「サバルタン・マイノリティ」(注7)文化論を評価する。「プロレタリアートのような階級概念ではなく、グローバル化によって抑圧搾取された多様な人々の・・・幅広い合意と共通の文化が問題にされている」(P89)、と。他方、国民国家の法的擬制である公/私のイデオロギーを批判して、階級概念や社会運動の根拠を論じる。そこには矛盾とあいまいさが垣間見える。

それはおそらく、685月のパリの共産主義者=アルチュセールの限界によっている。彼は『資本論』に対し、「イデオロギー・・・の理論そのものは含まれていない。そしてこの理論は大部分がイデオロギー一般の理論に依拠している」(P209)と、その欠如と未分化さを問題にしている。しかし彼は、「生産諸関係の再生産の実現の総過程の問題」(P246)を提起はしても、実際には<国家のイデオロギー諸装置>のなかに市場(流通過程)を含めていない。また生産過程については、搾取の問題を機能的に、<学校>という装置が作り出す専門家や職制の支配構造に求めている。結局アルチュセールと西川は、①貨幣の生成にともなう物象化と物化(『資本論』114節)、②労働力販売(流通の仮象)の領有法則への転換(同24章)など、『資本論』が提示するイデオロギー理論を見いだせなかった。つまり「国民である/でない」という法的なイデオロギーを基礎におく差別・排外主義に対し、その経済的=物質的基盤におけるイデオロギーの再生産を軽視した。上記の矛盾とあいまいさは、1つにその結果ではないだろうか。この後者については、また別の機会に考えてみたい。

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(注1http://yo3only.cocolog-nifty.com/log/2013/06/post-cff8.html 参照

(注2http://www.oklos-che.com/2013/06/blog-post_14html に同内容が掲載されている

(注3)それでもなお金がないという方は西川長夫の論文「<>植民地主義について」を参照

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/19-1/RitsIILCS_19.1pp-213-227Nishikaw.pdf

上記の本の出版とほぼ同時期の論文である。『立命館言語文化研究』191号に掲載されたものだが、同2号にまたがりほぼ<>植民地主義問題の特集号になっていて、おおいに参考になる

(注41条(自由・権利の平等)人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない。/2条(政治的結合の目的と権利の種類)すべての政治的結合の目的は、人の、時効によって消滅することのない自然的な諸権利の保全にある。これらの諸権利とは、自由、所有、安全および圧制への抵抗である。/3条(国民主権)すべての主権の淵源は、本質的に国民にある。いかなる団体も、いかなる個人も、国民から明示的に発しない権威を行使することはできない。

(注51948年の国連「世界人権宣言」もそのロジックを踏襲。他方、植民地(主義)については触れていない

(注6)カリブ海の旧フランス植民地(現:海外県)、諸民族混交のマルチニック島で、50年代生まれの文学者たちが88年に発した宣言

(注7)グラムシに由来する概念で、権力構造から全く排除された「従属的社会集団」のこと

2013年6月12日 (水)

【書評】尾松亮『3・11とチェルノブイリ法』―汚染地域住民と被曝労働者の連帯を、私たちはどう築いていくのか

2011年にチェルノブイリを訪れた若き研究者、尾松亮は言う。「20132月の時点で、日本では被災地支援を包括的に定めたチェルノブイリ法に相当する法律は、まだ整備しきれていない。・・・したがって、原発事故被災者の権利も明確に定められていない」(P70)、と。また警告する。「チェルノブイリ原発事故は、根深い政治不信と社会混乱を巻き起こした。これがソ連という大国が崩壊に向かう一因ともなった。・・・事故後の対応が、1つの国家を崩壊に導くほどの問題になりうる」(P238)、と。彼はあえて原発への賛否を明らかにしない。しかし求めるものは日本という国家の責任の明確化であり、法律という継続的・包括的な形を前提にした全面的な補償である。91年のチェルノブイリ法は、事故後5年にわたる放射線被害の拡大を放置したうえで成立した。内容は欠点も多く、その後は改悪の歴史をたどっている。だとしても、と尾松は言う。「チェルノブイリ法の考え方を取り入れるのか、批判して乗り越えるのか」(P101)、と。福島原発事故に対する「唯一の先例」を、私たちは無視できないであろう(注1)。

 

●被災者への補償の大前提は、国家の責任の徹底的な追及

「チェルノブイリ法とは、『法律』である」(P72)という全く当然な前提から、尾松は語りはじめる。なぜなら、「特別な法律によって被災者の権利や保障のルールを定めなければ、広範囲で長期的な事故の影響に対応することができなかった」(P75)からだ。そして法律の実行責任を負えるのは、「今の世界では国家しかありえない」(P98)と言う。それは例えば同法5条で、「被害補償や社会的支援策の実施については、ロシア連邦が資金拠出義務を負う」(同)と定められた。そして同法がカバーするのは、①被災地の範囲、②被災者の定義、③補償や支援の内容である。①と②の「基本的なルールを定めなければ、国民と国家が『被害補償』の共通認識にたどり着くことはできない」(P100)、と尾松は主張する。

関連して、同法成立1年前のソ連最高会議(注2)の決定が重要だ。「放射能汚染の被害を受けた地域

の社会的・政治的状況は、きわめて緊迫したものとなっている。原因は、学者や専門家たちによる放射能の安全性に関する提案が、互いに矛盾していること、不可欠な対策の実施が遅れていること、そしてその結果として、住民の一部が地方や中央の政治を信頼しなくなったことである。事故被害の状況の本格的な調査や、根拠ある対策プログラムの策定は遅れている。このことは、放射線被害を受けた地域の住民に当然の怒り(法的根拠のある怒り)を引き起こしている」(P74)――。これは福島の人々の状況と瓜二つだ。

日本と違う点は、最高権力機関が、事故の評価とその後の誤った措置の責任を認めていることである。その上で最高会議は、「居住コンセプト」というガイドラインを示し、チェルノブイリ法の制定を促進している。(注1)で紹介した調査団に参加した川田龍平は、「子ども・被災者支援法は、チェルノブイリ法を手本の1つとしている」と述べている。子ども・被災者支援法は議員立法として制定され、「被災者支援等施策の推進に関する基本的な方針・・・を定めなければならない」(第5条)と政府に義務付ける。だが、原発を推進してきた「社会的責任」(第3条)を問うが、「基本方針」の策定や各種の施策を求めるのみで、独立した法律の制定を要求していない。従って議員立法は店晒しにされたままだ。ソ連とのこの差異は、政府に原発事故とその後の不作為の責任を認めさせるか否かにかかっている。結果としてチェルノブイリ法と支援法は、その基本的スタンスが全く違うものになってしまった。対比すると以下のようだ(注3)。

                                   
 

 

 
 

国家責任

 
 

立法措置

 
 

対象地域

 
 

被災者の定義

 
 

施策の考え方

 
 

ソ連法

 
 

政治的・法的責任を認める(注4

 
 

居住コンセプトと

 

チェルノブイリ法

 
 

4区分

 
 

事故終息作業者と対象地域の住民=12区分

 
 

補償と支援

 

(注5

 
 

支援法

 
 

社会的責任のみ

 
 

非力な議員立法

 
 

不明確

 
 

対象地域の住民

 
 

支援のみ

 

 

●チェルノブイリ法を成立させた、被曝労働者と汚染地域住民の連帯

ここでチェルノブイリ法が施策の考え方として、補償と支援をあげていることは重要だ。なぜなら「補償」は国家が政治的・法的責任を認めることにより義務として発生し、被災者にとっては持続的な権利となる。一方「支援」は、財政状況に応じて政府が縮小や打ち切りを決定できる社会政策的な措置になってしまう。どうしてソ連でこのような法律を成立させることができたのか――それが私たちの関心事だ。

「チェルノブイリ法は、自然発生的に出来上がったものではない」(P104)、と尾松は言う。被災者からの補償を求める声が大運動になったことが背景だが、主な原動力は市民団体「チェルノブイリ同盟」だ。同盟の設立は1989年、全国化したのは90年である。それを設立したのは、「リクビダートル」(注6)と呼ばれる事故終息作業に従事した労働者や兵士であった。彼らの地位は、90年の社会支援・医療サポートを定めた決議(注7)で確立、94年には、被災地問題を管轄するロシア連邦非常事態省との協力関係にはいる。尾松は言う。「リクビダートルが被災者の代表として発言力を持ったのも、『英雄』として社会的な尊敬をうけていたためである」(P109)、と。そのようなチェルノブイリ同盟に放射能汚染地域の住民たちも合流、ロシアだけで同盟員は70支部10万人である(注8)。ここで被曝労働者も汚染地域の住民も、同じく「被災者」と考えられていることは重要である。なぜならリクビダートルの労働は原発事故に由来し、平均して120mSvを被曝、ガン死亡率は2000年のデータで一般住民の3倍を数えているからだ(同注6)。

日本でも人々は緊急作業従事者を「神様」「英雄」と称賛した。だがそれは、遠くの都市部に住む自分を「被害者」として固定し、「汚い労働」に従事する原発労働者を差別する裏返しの表現だったかもしれない。また事故現場で働く労働者の70%は地元出身者だが、そのなかから「原発をささえ、事故を起こした責任感から働いている」といった声も聞こえる(注9)。そこには労働者の「魂」が感じられるが、被災者であることと被曝労働者であることとの2重の苦難と、それを「責任感」という言葉で結びつけざるをえない悲しい分裂がある。被曝労働者も汚染地域の住民も同じく「被災者」である、という思考の転換が必要だ。それは国家を追及してチェルノブイリ同盟が達成した、大きな成果に結びつくかもしれない。また都市部の「被害者」が被災者に対して持つ、いささか軽い同情の念に切り口を与える可能性もある。

 

●原発現地で、再稼働阻止闘争と被曝労働者支援のむすびつきを

ロシア最西部、ベラルーシのチェルノブイリ原発から約200Kmに位置するブリヤンスク州の、事故から25年たった状況はどうだろうか。州全体での人口減少率は11.7%、汚染の大きい南西部では34.3%で、都市・農村の両方で16歳未満の人口減が顕著である。95年比で州全体の疾病件数は1.4倍、南西部では2倍以上(P10~)だ。州西端の「ロシア・チェルノブイリ問題の首都」と言われるノボズィプコフ市では、それぞれ1,000人以上の従業員を抱えた工場がほぼ停止したままである。健康診断などのサービスを受けるためには州都まで200Kmの行き来が必要だという(P29~)。チェルノブイリ法をもつロシアにしてこの状況だ。福島は事故から25年後、どうなっているだろうか。

 いま政府と電力会社は、718日の規制基準の施行をうけて原発再稼働に走ろうとしている。玄海、川内、伊方、泊の4原発の名前があがり、あろうことか東京電力も柏崎刈羽原発の再稼働申請を出そうとしている。規制委員会は、9月にいったん止まる大飯原発の活断層調査を関西電力まかせにし、定期点検後の再稼働を許す方向だ。一方、事故時の住民避難計画は、なんら実効性がないことが明らかにされている。そこで再稼働阻止闘争と被曝労働者の安全と権利を守る運動とは、一見、矛盾するかにみえる。だが、停止している原発にも放射能が溜めこまれており、そこで働く労働者は被曝の危険にさらされている。彼らが原発内で安全運動を展開するなら、それ自身が原発の再稼働や運転に規制をかけ、周辺住民の安全につながる。稼働している原発、そして福島の事故現場においてはなおさらだ。まさに原発現地で結びつく必要がある。リクビダートルのように、被曝労働者と住民は同じく顕在的/潜在的な「被災者」として結びつくことが可能であり、また連帯していく必要があるだろう。

 627日は子ども・被災者支援法が成立した日だ。私たちは改めて国家の責任を糾明し、「被災者」の定義を地域住民と被曝労働者の連帯という形で顕在化させ、福島の現状の打破と全原発の停止をかちとっていかなければならないと思う。

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(注1)チェルノブイリ法はソ連崩壊により、ベラルーシ・ウクライナ・ロシアの3共和国でほぼ同文で採択されている。尾松の本はロシア連邦法の抄訳を載せているが、全訳は例えば、ウクライナ法を「衆議院チェルノブイリ原子力発電事故等調査議員団報告書」7-(1)-⑥で参照できる。

  http://syugiin.go.jp/itab_annai.nsf/html/static/shiryo/cherno16.pdf/$File/cherno16.pdf

(注2)ソ連の最高国家権力機関だった。行政権と立法権の機能を併せもち、唯一憲法修正権ももつ

(注3)支援法は「避難の権利」の点では、チェルノブイリ法より優れている。住み続ける権利、避難する権利に加え、「帰還の権利」が新しく追加された概念だ。尾松の以前からの提案が活かされた

(注4)チェルノブイリ原発は国営であったが、「原子力ムラ」といわれる原発推進体制からすれば、日本政府も政治的責任および法的措置の責務を問われることは当然である

(注5117月に始まった「ふくしま集団疎開裁判」に関連して述べた筆者の意見は、下記を参照

http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-337a.html

(注6Wikipedia参照。直訳は清算人。終息作業や避難・除染など、汚染地域で作業に関わった労働者や兵士たち。総数6080万人、8687年の従事者は約20万人、95年時点の登録者は37万人と言われる

(注7)ソ連閣僚評議会および全ソ連労働組合中央評議会の合同決議で、政府と労働者の意思を代表する

(注8)正会員になれるのは主にリクビダートルで、汚染地帯に住む人々は「集団会員」、という差はある

(注9)同種の発言は、『労働情報』859号「原発建設に責任感じ除染作業で罪滅ぼし」を参照

2013年2月13日 (水)

【書評】宮良作『国境の島 与那国島誌』(あけぼの出版)―海のかなたに国境も、国家も、戦争もない世界が見える

清水早子さんが[CML 022465]で、「2・24愛(かな)す宮古(みやーく)市民ピースアクションに全国からご参加を!」と訴えていた。政府は来年度予算で下地島空港の自衛隊利用の調査費をつけ、114日には防衛省がF15戦闘機の常駐を検討していると発表した。地元の伊良部町議会(現:宮古市)は05年、住民の大反対をうけ、それまで2回の自衛隊誘致決議を大差で白紙撤回している。今回の動きは、尖閣諸島周辺の「緊張」をチャンスに対中軍事シフトを強化しようという、住民の意志をまったく無視した暴挙だ。

宮古島から伊良部島まで高速船なら15分、狭い海峡を橋で渡ると下地島だ。そこに3,000メートルの滑走路をもつ空港ができたのは「復帰」直後の1973年。清水さんは、「空港建設当時の危惧」を振り返っている。小さな島の巨大な空港は、沖縄「返還」と自衛隊派兵をうけ軍事基地化するのではないかと言われていた。その歯止めとして71年、当時の屋良・琉球政府主席は日本政府と覚書を交わしている。「下地島飛行場は・・・使用方法は管理者である琉球政府が決定する」、と。また79年、「軍事目的使用の制限については・・・知事の管理権で可能」、との政府答弁も引き出した。これらを覆す今回の動きは、地方自治をないがしろにし、沖縄の人々全てを敵にまわすものでもある(注1)。

 

●領土問題を相対化させる、台湾や沖縄の「周辺」の視点

 尖閣諸島周辺の「緊張」の実態、推移、歴史的背景や意味などについては、岡田充『尖閣諸島問題』(蒼蒼社)が好著だ。注目すべき主張は、①グローバル化は国際関係と国家の統治形態に変化を及ぼし、国家概念を相対化させる(P131)、②台湾・馬総統の「東シナ海平和イニシアチブ」=「領土と主権は分割できないが、天然資源は分けることができる」を支持(P171)、③解けなくなった尖閣の「方程式」に台湾を入れることで領土問題を相対化する構想力が得られた(P182)――という諸点だ。馬提案は、台湾が「中心」ではなく「周辺」に位置するがゆえ提起できたと評価し、そして沖縄をもう1つの「周辺」と位置づけるのである。この「周辺」ということ、そこでの抑圧や生活や闘いについて、岡田は宮良作『国境の島与那国島誌』(注2)から紹介している。もう少し深く『島誌』入り込んでみよう。

与那国島は八重山列島のいちばん西、台湾から110Km、北北西の方角の尖閣諸島(中国名=魚釣島)まで150Km。逆に列島の東端の宮古島まで300Km、沖縄までは500Kmと、かなり離れた位置にある国境の島だ。沖縄は1429年以来の琉球王国という独立国で、中国とも外交関係を結んできた。それを明治政府は、①1872年に琉球藩として併合、②79年には軍隊を派遣して沖縄県とし、2次にわたる琉球処分で琉球王国を併呑した。近代日本の最初の侵略戦争である。第2次琉球処分に対し清国は強く反発、宮古島以南を清国領とし、代わりに日本が最恵国待遇をうけるという案も浮上、あやうく第3次処分が行われるところだった(P105)。植民地であり、外交的道具でもある八重山諸島であるからこそ、様々な抑圧や差別がのしかかる。皇民化教育や「方言札」、住民監視の警察制度であり、また土地・租税・地方制度の「旧弊温存」方針をとって「国民」として扱わなかった。特に薩摩藩支配下で始まった人頭税は、支払い能力(所得税)や資産(固定資産税)ではなく、成年男女の「頭数」に賦課する82民の酷税だった。266年続いたそれが廃止(1903年)されたのは、沖縄にも98年に徴兵制がしかれたのと引き換えだったのである。

第一次大戦後の恐慌のなか、東京から1年遅れの沖縄第1回メーデーが開かれたのは1921年である。サトウキビを買いたたく砂糖資本に対し、飢餓状態に苦しむ農民は各地で納入ストに入り、嘉手納では勝利をおさめた。与那国ではどうだったか。19年から「ソテツ地獄」(注3)が始まり、高利貸しの利子は年100%に跳ね上がり、農地を手放す農民、台湾に出稼ぎに行く青年が増えた。出稼ぎ収入の台湾銀行券が島内を回りはじめた。宮良は、ここから与那国は変わったという。「絶海の農村孤島ではなく、大きな台湾島台北市・・・に隣接した近郊の小さな農漁村島になっていた」(P46)、と。それは同時に「農民の労働者化、生産物の島外移出の積極化」(同)だ。おそらくこの島の商業化・資本主義化をベースに、しかしそれと対抗して、村政改革運動と労働運動の一定の伸長も起こったのである。

 

●国境の島=与那国の村政改革運動、農民・労働者の闘い

 「大正後期ころからはじまった与那国青年たちの高利子反対、納得いく税金と人権をと訴える運動が・・・昭和に入り、さらに村政の改革へと発展した」(P51)、と宮良は言う。与那国村同志会の結成は1920年だ。まず323月に代表の仲里義市が村議選でトップ当選、続いて翌年の補欠選挙で大勝利して多数派を握り、改革派の職員が助役と収入役に就任した。行った施策は、①企業・資産家からの徴税の徹底や資産隠しの摘発、②給与の企業「私幣」(注4)による支払いの刑事告発、③農業用水ダムや港湾・教育などのインフラ整備、④作物の品種改良や産業振興による交易額の増大――等である。だが最も重要なのは、同志会そのものの性格である。その会員資格は、15歳以上の男女の村民全員だった(注5)。年に2回の総会をもち、部落ごとに人民総代(注6)を選び、組長や事業部長を決める。宮良がインタビューした元村長・浦崎栄昇さんは、こう解説したのだという。「与那国島は、かいびゃく以来昔からこうして、住民が男女同権でみんな集まって議論した民主主義(直接)の島だったのだ」(P112~)、と。

 その同志会に3211月、治安維持法の弾圧がきた。一部企業家たちが、同志会は共産主義者が牛耳っている、金持ち課税への異議申請を妨害しようとしている――と巡査に総会の監視を頼んだ。まったく別の動議が出された瞬間、巡査が「同志会は政治問題を議論している、同志会解散!」と叫んだ。治安維持法に基づく「集会禁止・解散」の命令だ。だが村民たちが総立ちで騒ぎ、巡査は会場の教室の窓から逃げ出す事態となった。そして巡査の帯剣を奪った、机を投げつけた等と、でっちあげ逮捕を強行したのである。だが裁判では、すべてが虚偽であることが明らかになり、1人の巡査は偽証罪で免職、もう1人は減給となり、立件した検事も配転となった。これとは別に32年、日本教育労働者組合八重山支部は治安維持法の容疑で15名が逮捕されている。一方、同じ32年には八重山列島では初のストを土木労働者が闘い、ほぼ全面勝利した。こうして1932年は、村政改革運動や労働運動の前進が治安維持法による弾圧と交錯し、以後、319月の「満州事変」勃発からの総力戦に与那国島は巻き込まれていくのである。

 与那国島は台湾戦線と連携した無線基地、輸送中継基地となった。陸海軍の兵士が進駐、在郷軍人会が島を支配、沖縄戦をひかえて「残置謀者」が教員として国民学校や青年学校にもぐりこんだ。「日本軍は、住民に米や野菜を強制的に供出させるなど、住民いじめがつづきました。・・・軍に魚の供出を要求された漁船が漁にでて、敵機に爆撃され、27名の漁民が漁船もろとも木っ端微塵に散ってしまう悲劇もおきました」(P168)。そして敗戦後、台湾との交易が「自然に」始まった。「台湾島と与那国島は50年も日本のなかの隣島同士、与那国島は、台湾島の経済圏のなかでした。その歴史的習慣と近距離感からの交易が、なんの違和感もなく8/15以降も続いていた」(P193)。宮良はそれを「復興交易」と呼んでいる。漁民たちは一帯の海で漁をし、台湾で売り、生活物資を島に持ち帰った。台湾船の入港は阻止されなかった。「復興貿易」は51年まで継続し、島の生活を支えたのである。

 

●「諍いの海」「戦の島」を許さない、人々の交流と直接民主主義

 海は人々の交流を隔てるものではない。むしろ島々の人たちが対面し、話し合い、生活の糧を分け合う「結びの海」が本来の姿だ。それを「諍いの海」「戦の島」に転化させたのは、近代国家の成立と帝国主義的な領土拡張、その勝手なロジックとしての「先占権」であった。大日本帝国の敗戦、激甚な戦争被害、米軍の占領という歴史的な激動の隙間であったとはいえ、6年間の「復興貿易」があったことは大きな意味をもっている。しかもそれは単なるエピソードではなく、国境の島に住む人々の自然な生活感覚の延長上にあった。また2次にわたる琉球処分や旧弊温存政策、資本の跋扈や治安維持法の弾圧への根強い抵抗が、「生活感覚」とアマルガムを成していったのではないか。そしてすべての基本は、上述の浦崎栄昇さんの証言にある「直接民主主義」の力であったように思う。敗戦の年の1215日、八重山郡民大会が催されて全島を結ぶ自治会を結成、それは「八重山共和国」(注7)と呼ばれた。与那国島では47年に「人民総代」制度が復活した。村民集会では、「散髪代その他もろもろの公的料金や物の値段を決めた。戦前、長く続いた同志会を引き継ぐ形のいわば、直接民主主義の実行だった」(P301)、と宮良は記している。

 127日、オール沖縄144名の上京団を迎え、日比谷野音は4,000人の参加者であふれかえった。安倍総理への「建白書」は言う。「オスプレーが配備された昨年は、いみじくも祖国日本に復帰して40年目という節目の年であった。古来琉球から息づく歴史、文化を継承しつつも、また私たちは日本の一員としてこの国の発展を共に願ってもきた」。しかるに「オスプレーを配備することは、沖縄県民に対する『差別』以外何物でもない」、と。「守礼の島」沖縄の首長・議員たち口から、「差別」という言葉さえもが飛び出した(注8)。それにも関わらず安倍は、オスプレー配備撤回、普天間基地撤去―県内移設断念の要求を一顧だにしていない。むしろ沖縄を再び「戦の島」にしようとしている。私たちは、領土問題をテコとしたナショナリズムの扇動、戦争態勢の強化に実力で対決しなければならない。そのとき1つの武器は、与那国島の人たちが教えてくれた「結びの海」「直接民主主義」という思想と運動である。

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(注1http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-201155-storytopic-11.html 等を参照

(注2)発行は「あけぼの出版」。2,300円。沖縄外では入手困難と思われるので、出版社に直接ご連絡を

 〒900-0016 那覇市前島3-1-17 Tel:098-861-9145 Fax:098-861-9148 e-mail:akebono1@ii-okinawa.ne.jp

(注3) ソテツの実しか食べ物がない飢餓状態。毒性。私は幼小時その実を食べ、高熱が続いたらしい

(注4)企業内の売店などでのみ通用する「紙幣」のこと。労働者を消費の場面でも搾取する違法行為(紙幣類似証券取締法違反。労基法24条の5原則=通貨で、直接、全額、毎月1回以上、一定期日に支払う)

(注5)ただし男は~50歳、女は~40歳。この差別の理由は明らかにされていない

(注6)人民総代について「いまの公民館長のこと」と説明されているが、沖縄の人以外は謎が深まるばかりだろう。私もよくわからない。その昔、何か村落に問題が起こると皆が公民館に集まり、議論の進行役が「館長」。要するに村落の代表だと、読谷村で教わった記憶があるのだが・・・

(注7)八重山への米軍の進駐が遅れ、8日間、自治会長=大統領のもとで行政を行った。桝田武宗『八重山共和国―8日間の夢』(筑摩書房)が出ている。簡単な説明は以下を参照

 http://chinachips.fc2web.com/repo5/051062.html

(注8)「差別」という観点は、「琉球独立」という主張と通底するものである。下記のBlogを参照

 http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-0700.html

2013年1月30日 (水)

【書評】内橋克人ほか『安心社会を作る』(新評社)―国家・資本・社会の「3元的社会構造」と世界資本の再構成

「もし資本家達が本当の本気で資本主義を永続させようとすれば、ある意味で再配分を重視するブロックがドンドン増えていく気がします。そこに国家との結びつきが希薄な新たな公的セクターが誕生するような、そんな予感です」――。これは「『成長の呪縛』からの解放、解放の経済学」という表題で、ローザの『資本蓄積論』を考えた文章をBlogに載せた際、いくつか書き込まれたコメントの1つだ。彼は具体的にはIMFや各種国際機関、ティンバーランドやパタゴニアなどCSR活動に熱心な企業の動きをイメージしている。投資の不可能性と成長の限界という資本主義末期の状況下、資本家達が「世界的な再配分組織に衣替え」し、いわば最後の収奪として分配にともなう利益をかすりとる。各種国際機関と結びついて「世界ノーメンクラトゥーラ」に移行する。「国家との結びつきが希薄な新たな公的セクター」とは、おそらくこんなブロックのことだろう。その実体は存在するのか、有るとすればどのようなものか?

●政府・企業・市民社会が、「失われた10年」の罠からのがれる?

 それを考える素材を、内橋克人らが協同編集したシリーズ「『失われた10年』を超えて――ラテンアメリカの教訓」のうち、第3巻の論文集『安心社会を創る』が提供している。もっとも、問題意識は新自由主義がもたらした「一連の負の累積効果」をいかにリカバリィーするかだ。「この事態の『先進』地域であるラテン・アメリカから・・・反面教師的な教訓を得る・・・政府・企業・市民社会が『失われた10年』の罠から逃れるために編み出してきた政策や戦略・・・から教訓を読み取る」(発刊の辞)ことがシリーズの目的である。それゆえ全体として「構造改革論」的にならざるをえない。そして基本的な視点はパットナム(注1)の「社会関係資本」の概念であり、それを採用した世界銀行の00/01年版『世界開発報告』に立脚している。世銀は、いまだ市場中心主義的ではあれ、「90年代までの市場一元主義的な開発戦略を見直し、国家、市場、市民社会という三元的社会構造に基づいて開発戦略の再構成を目指そうとしている」(篠田武司「社会関係資本と『安心社会』」P61)というのである。

 「社会関係資本」とは何か。概念的にはそれは、インドの経済学者センによる、貧困を脱するための「エンパワーメント」の提唱に始まる。それに呼応しUNDP(国連開発計画)は90年から『人間開発報告』を発行、この概念が支持されていく。そして篠田が、93年のパットナムの著書からまとめたという定義は以下のようだ。「共有された目的を実現するため、平等な市民による『自発的な協同』であり、また公共性への市民参加を促すための信頼、連帯、寛容といった人々の間に共有された規範、あるいはネットワークや関係性である」(p71、注2)。要するに社会関係資本というモチーフに基づき、「開発戦略の再構成」という世銀の目論見に対応、「市民社会」の役割と関与を論ずるというのがこの本の客観的な位置づけということになる。とはいえ報告されている事例は有意義だ。

「多民族の共生と市民参加―エクアドルの事例から」(野口洋美)を参照しよう。エクアドルでは98年、マウア大統領のもとで多民族・多文化国家としての憲法改正が行われ、国家先住民・少数民族問題事務局(SENAIME)が設けられた。それは、世銀などに融資を依頼し、先住民族とアフロ系の人々のために開発プロジェクト予算を確保する。エクアドルは、世銀融資によるエスノデベロップメント(注3)の舞台となった。だがこれは、「新自由主義的改革に・・・遭遇した先住民族の人々による運動があってこそ、ようやく実現された」(P206)という。具体的には92年、①米テキサコ社の石油採掘による経済・社会・環境の被害に関し、損害賠償請求訴訟をアメリカ裁判所で起こしたこと。②土地の平等な再配分を終了させる農業開発法に対し、全国的なデモ、ハイウエー封鎖、政府機関の占拠で闘ったこと――である。②については、当時1%の地主が40%の農地を所有、大半の農民は「農奴」として働くしかなかったのだ。①については、国内の環境NGOのみならずアメリカでも「エクアドルネットワーク」が立ち上がり、「最終的には世界各国から数百の環境活動団体および人権団体が参加する国際的な同盟が形成された」(P207)。94年にはエクアドル先住民族連合(CONAIE)代表が、環境保護活動に対する「ノーベル賞」=ゴールドマン環境賞を受賞してもいる。

●共同体のパワーを「搾取」する、エスノデベロップメント

 エスノデベロップメントの実態は、どのようなものであったのか。その特徴は、①先住民―貧困のクロスする地域を選定し対象者は約83万人(人口の約7%)、②地域世帯の「底辺組織」<教区<県レベル<海岸・山岳・アマゾンの地方上部組織<CONAIEという、「底辺」のイニシアティブを重視した組織、③儀式や遺跡の確認などアイデンティティの再生産――などだ。野口は山岳地方に位置する村落の集会の様子を紹介している。「CONAIE全国代表選にアソシエーションの代表として誰が出席するかを決定した後、議題は祝祭に移った。・・・祝祭のプリオステ(ホスト役―筆者)・・・は祝祭の全ての費用を負担する。・・・前年にプリアステを務めた小グループは、集落に残存するアシエンダ(大土地所有者の農場―筆者)を購入し・・・土地購入の際に受けた融資を繰り上げ完済していた。・・・プリオステは集落内部で富の再配分機能を果たすのだ」(P213~コラム)、と。

 こうした事例研究もふまえ、野口は世銀の02年までの「第1フェーズ終了レポート」を援用している。①先住民族組織の強化=先住民族組織が212の開発計画を作成、1205名が開発専門家育成の奨学金を受領、②土地と水利権の合法化支援=先住民・アフロ系組織に25ha以上の土地が移転(土地所有権の確立)、③農村投資=投資は社会インフラ(50%)・生産インフラ(40%)・環境や天然資源の持続可能な管理(8%)に使われた、④CODENPE(エクアドル諸民族開発審議会)の組織強化=98年の憲法改正や先住民文化を保護する法律――。そして、「新自由主義による民営化・規制緩和によって負の影響を被り続けている人々の声を地域の底辺組織から発信し、国際NGOとの連携によって政府および国際金融機関の決定を覆したという事実は画期的なこと」(P220)、と総括するのである。そこでポイントは「参加」だという。それは、「先住民自身が開発計画を作成し、代替え案を提示する機会を持つ・・・底辺組織までもが、意志決定プロセスの最初から最後まで関与する」(P221)、といったことだった。

 これはこの本の諸報告中、市民社会の役割と関与の「最良の事例」と言ってよいだろう。ただそこで、政府―市場(資本)―市民社会の「3セクター論」の枠組みにおいて、資本の要素が意図的に忘れられ、「国際金融機関(=世銀)の決定を覆した」という「成果」にすりかえられている。そもそもこのシリーズ全体が、新自由主義の「一連の負の累積効果」という結果からスタートし、「政府、企業、市民社会が、『失われた10年』の罠から逃れる」ことが主眼だった。従って、新自由主義がマネーゲームに走り、労働者・農民の搾取を強化してきたことの根源、すなわち資本主義の「成長の限界」(注4)という把握はない。それゆえ世界総資本に代わる蓄積を、世銀など国際金融機関が果たしていることに眼が行かない。世銀が「90年代までの市場一元主義的な開発戦略を見直し、国家、市場、市民社会という三元的社会構造に基づいて開発戦略の再構成を目指そうとしている」という篠田の認識は、野口の研究と共通項を持っていないのである。

 

●国家も資本もない「市民社会」が、私たちの新しい世界

 世銀の「開発戦略」の再構成は、本論文に沿うなら次のように言えるだろう。まず世銀は次のように決定した。「プロジェクトは技術援助ではなく投資であり、開発プロセスは先住民組織の手に完全に引き渡される」(P212)、と。それゆえ上記コラムのコミュニティの小グループは、投資を受けてアシエンダの農地を買い取り、負債を完済し、「奴隷」制に基づく大農場の生産性の低さを救う。また祭礼のプリオステは「富の再分配機能」を受け持って、生きいきとした相互扶助のコミュニティは国家の歳出を削減させる。すなわち、独立自営農民の創出によってエクアドルの私的所有の確立と資本主義の「開発」をうかがう一方、国家の力も利用して、従来からの共同体的な自助的パワーを取り込もうとしているのだ。まさに先住民の薬草などに対する伝統的知識を製薬会社が特許化するように。すなわち、まだまだ成長の余地がある開発途上国の潜在力を、資本主義化と、共同体の社会的な力の搾取との両面で引き出そうとするのが、世銀を代表とする世界資本の「開発戦略の再構成」の主眼と思える。そもそもエンパワーメントとは、「人間の開発」を通じて、開発途上国の人的・社会的・物的資源を世界資本主義の発展に結びつけるためだった。

 この「共同体の社会的な力」は、実は資本(家)がなくてもやっていけるという、人々の成熟しつつある、または歴史的に蓄積された能力を示していると思う。ただそれが直ちに実現されないのは、国際金融機関や企業が「蓄積された労働」としての資本を集中し、独占しているからにすぎない。また国家やアメリカを中心としたその同盟が、資本の支配を守っているからにすぎない。だとしたら野口は、政府や企業に対する市民社会の貢献ではなく、資本と国家に対するコミュニティの力の全面的解放を論じるべきだった。それを避けるのは、単に構造改革論であるか、社会民主主義のむなしい再建の努力と言わねばならない(注5)。

 国家を悪く言ったが、エクアドルはなかなか良くやっているようだ。コレア大統領のもと、04年にはアメリカとのFTAを拒否して新自由主義に反対、08年新憲法は社会の変革、両性の平等、複数民族制を掲げた。土地問題では09年、2年を超えて使用されていない土地の接収を政令で定め、即座に倒産した銀行の1,2000haの土地を小農たちに分配した(注6)。99年にパナマから移転した米空軍基地は、09年の契約期限切れを機に撤退させた。エクアドルの人々は、たかだか「国際金融機関の決定を覆した」だけではなく、国家の在り方をも動かしていると言うべきだろう。エクアドルのコミュニティの力の全面的な解放は、世界資本の「開発戦略の再構成」を阻み、蓄積すなわち搾取による成長を拒否する世界の人々の連帯にかかっている。「三元的社会構造」を解体し、国家も資本もない「市民社会」こそが私たちの新しい世界である。

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(注1)米国の政治学者。『孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生』(柏書房)が有名

(注2)李妍焱が『中国の市民社会』(岩波新書)P5~で、市民社会という概念を3つに整理し、そのうち「実社会の一部」としての「市民社会」をよりスマートに説明している。「目標達成の手段が、政府による強制的手段、もしくは市場のインセンティブではなく、あくまでも対話、交渉、説得といった手段による」、と。

(注3Ethnodevelopment:先住民の文化と社会の特性を生かした、先住民主体の開発

(注4)「成長の限界」については以下を参照。政策提言型のNGOが、政府と資本に受け入れやすいロジック(自然環境エネルギーへの転換は経済成長につながる、等)に陥りやすいことも要注意だ

 http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-29e6.html

http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-65fe.html

(注5)社会民主主義、一般にリベラリズムの終焉に関しては、ウォラーステイン批判を参照

 http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-de9e.html

(注6)『赤旗』091224日。http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-12-24/2009122407_02_1.html

2012年11月18日 (日)

【書評】『原発を拒み続けた和歌山の記録』(寿郎社)―勝利した現地闘争からまなぶべきこと

1110日の「再稼働阻止!全国ネットワーク」の結成集会には、午後の3つの分散会と夜の全体集会をあわせ、のべ300名が参加した。16の原発現地の方々がそれぞれ「再稼働阻止」の決意と取り組みを報告した。なかでも和歌山県の中西仁士さんの発言は特別の意味を持った。なぜなら和歌山の全県的な闘いは、67年から90年にかけ、合計5カ所の原発立地計画をことごとくつぶしてきたからだ。それをまとめたのがこの本、『原発を拒み続けた和歌山の記録』である(注1)。結果、建設が阻止された三重県の芦浜原発(注2)も含め、紀伊半島には1基の原発もない。

和歌山の闘いの歴史的意味について、中西さんはこう書いている。「いまから振り返れば、昭和63年(1988年)の紀伊半島と高知(窪川町)の闘いが日本における原発立地をめぐる推進派と反対派の天王山の闘いであった。『昭和の終わり』とともに、そこで日本の原発立地の流れが変わっていったのである。すでに原発の作られている地域での増設はあっても新規立地はほとんどできなくなってしまった」(P213)、と。

 

●土地所有権と漁業権―自治と民主主義が奪われたなかで

 地権者・漁業権者の抵抗は、日本の反原発運動のなかでキーポイントとなってきた。というのは、原発の許認可・規制権限が政府に一元化され、自治体が「3割自治」におとしめられ、農・漁村に「過疎」化が強制されるなかで、政府と自治体と電力会社が一体となって原発建設を推進してきたからである。残る「砦」は土地所有権と漁業権(注3)だけになりがちだった。悲惨な事故にたち至った福島県と、勝利した和歌山県の場合を対比してみよう。

                       
 

 

 
 

土地所有権(農業)                                     

 
 

漁業権(漁業)

 
 

反対運動

 
 

福島県

 
 

県の開発公社が3/4、東電が1/4を買収

 
 

9組合が5ha強を1億円の補償金で放棄

 
 

双葉地域原発反対同盟。指導者の転向などで拡大せず

 
 

和歌山県

 
 

県・自治体と関電がウソとダミー会社を使い事前買収

 
 

揺れはあったが、最終的には全漁協が事前調査に反対

 
 

各地の女性が奮闘、最終的に「脱原発わかやま」結成

 

福島県は60年に日本原子力産業協会(注4)に参加しているが、同協会は用地買収の成功を以下のように総括している。「隣接地区では精農家が多く、生産意欲が大きいために反対機運があったが、当地区(大熊町―筆者)では開拓農家が主体で生産力・定着力共に低かった」(注5)、と。まさに耕作困難地をあてがわれた貧農の足元を見た、のちの成田空港建設と同じ立地計画と土地買収が行われたのである。東電が買収した30万坪も、強制収用された旧陸軍航空隊基地が民間企業に安く払い下げられ、遊休化していたものだった。

 和歌山県の土地買収は、すでに立地が困難になっていた状況を反映し、手口はまったくペテン的である。まず67年に目を付けられたのは、和歌山市南方の日高町阿尾地区だった。大信製材という会社が製材所をつくるといって用地を買収、それをそのまま関電に転売したのである。そこには地元の賛成派が絡んでおり、町議会はすばやく誘致を決議した。一方、72年暮れから県南の日置川町(現・白浜町)では町の開発公社が用地買収を開始、その名目は自然保護のため国定公園にするということだった。「日置川町民が原発誘致のことを知ったのは・・・土地が関西電力に転売されると報じた新聞記事によってである」(P25)。

 

●主体の転換―苦しい闘いと分断を越えて

 日高町への立地は、68年の阿尾地区総会と漁協総会の反対決議で頓挫する。だが75年以降に再燃、新たに日高町の小浦地区と上記の日置川町が予定地とされた。そのほか那智勝浦町、古座町などが候補となったが、前者は71年に町議会が反対を表明、最終的には81年に町長が「設置反対」を表明して計画が消滅する。後者は72年に町議会や漁協が反対決議をあげ、紆余曲折はあったが90年の議会決議でカタを付けた。そこで以下、90年まで継続した日高町小浦地区の攻防を中心に紹介していこう。

鈴木静江(日高町「原発に反対する女の会」)は、『女から女への遺言状』にこう記している。「阿尾は白紙撤回したけれど、その時は賛成の人、反対の人がほんまにもう、顔つきあわせてももの言わない状態になって、村が二つに割れてね、双方傷だらけになってしまった。・・・そういう状態が何年も続いていたんですからね」(P233)、と。日高町の阿尾地区は6年、そして小浦地区は90年までの15年、苦しい闘いとコミュニティの分裂を強いられた。

まず70年から町の予算を使って用地を買収、町長名義で登記、関電関連会社に転売する動きが先行した。756月の計画打診をうけると、議員・区長・住民の原発ツアーを重ねたのち、12月議会は「原発調査研究特別委員会」を設置した。比井崎漁協は76年の臨時総代会で「誘致につながる調査研究は絶対反対」と決議したが、他方78年の小浦区民総会は陸上事前調査の受け入れを決めた。日高郡の全漁協と地元・阿尾地区の反対決議が出そろった、68年の場合と状況が違う。カギを握るのは比井崎漁協だけとなってしまった。

この瞬間、闘いの主体の大きな転換が起こったのではないか、と私は思う。寺井卓也さん(注6)は淡々と書いている。「そうしたなかで、昭和535月、反対派住民による『原発を考える女の』が結成され、久米三四郎氏の講演会が開催された。阿尾地区の漁師たち130人も11月、『比井崎の海を守る会』(男限定)を結成した」(P57)、と。これは地区総会や漁協といういわばフォーマルな組織の危機において、女たち/男たちの自前の運動―組織が立ちあがったということを意味する。また「熊取6人衆」の久米三四郎のみならず、和歌山市の汐見文隆さん(注7)ら市井の科学者も多く運動に参加した。その翌年のスリーマイル島事故をはさみ、事前調査が着々と進むなか、8012月には上記2団体に日高町原発反対住民会議を加え、日高町原発反対連絡協議会が発足している。翌年1月、2地区労や日本科学者会議御坊分会と共催した浜辺の決起集会を経て、和歌山県原発反対住民連絡協議会が結成されたのは6月のことである(注8)。

 

●当然のこと―労働者・住民が現地をささえる

 日高町では、あらかじめ予定地が町の不法行為で買収されたり、東電が小浦地区に事前調査の「迷惑料」4,300万円が支払ったり、比井崎漁協の口座に3億円を預金したり、あらゆる手練手管が尽くされた。特に漁協については不正経理事件の暴露をうけ、自主再建を目指す動きに県・町・和歌山経団連が支配介入を計ろうとした。しかし総会は反対派の粘りで2回も流会となり、結果として事前調査は拒否され続けた。チェルノブイリ事故をはさんだ88年の総会は、組合長が壇上で殴られる事態となった。ついに組合長が宣言する――「議案は廃案」、と(注9)。それは海上事前調査の議題そのものを無しにすることを意味し、90年の反対派町長の当選もあいまって、日高原発の息の根を止めたのである。

 こうして和歌山の反原発運動は、国と自治体と電力会社が農漁民の生きる権利を奪って立地(注10)を推進するのに対し、労働者・住民が大きく彼らをささえ抜いたということである。それはしごく当然のことのように思える。だが実際に勝利した例は多くはなく、特に原発の既設地域では闘いは次第に弱まった。その一結果が福島の事故だ。他方、大飯での36時間のバリケード闘争は、このしごく当然な連帯の必要性と有効性を再確認させてくれた。それゆえ今回、「再稼働阻止!全国ネットワーク」も結成されたのである。97年まで続く2年に1基の割合の原発建設ペースを断ち切ったのが、90年の和歌山と88年の窪川町の闘いの勝利だった。私たちは勝利した反原発闘争に学び、かつ、再稼働を狙う原発に直に向きあう現地闘争と強く結びついていきたいものだ。

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(注120125月刊。8人が執筆し、3人の人物が紹介されている和歌山オールキャストの本で、中西さんは「反対運動をどう闘ってきたか」を書いている

(注2http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-5538.html 参照

(注3)漁民は原発による水域の占有や温排水などの被害を受ける。漁業権は、漁業法により知事が漁協などに与える免許だが、土地所有に準ずる強さを持つ

(注456年結成。現・日本原子力産業協会。その「目的と活動」には、「国民的立場に立った原子力利用を旨とする産業界の総意に基づき、各界の協力を得て・・・政府の行う原子力開発利用計画に協力」とある

 http://www.rist.or.jp/atomic/data/dat_detail.php?Title_key=13-02-02-05 参照

(注5Wikipedia 「福島第一原子力発電所」2.3参照

(注6)寺井さんは「5か所の原発計画と反対運動」の執筆を担当

(注7)「脱原発わかやま」顧問、この本の監修者。和歌山で反公害運動を長く続けてきた

(注887年には「日高原発反対30キロ圏内住民の会」も結成、88年の集会には窪川町からも応援が駆けつけたという(P79)。「30キロ圏内」という発想はこのころからあったようだ

(注9)元反対派だったこの組合長は「関電や県や町などに迷惑をかけたと言う一方で、『それ以上に漁民が大切。原発はもう出てきていらんな。仲たがいはしたくない』と述べ」たという(P86)。「板子1枚下は地獄」という生業に携わる漁師のこのような言葉は、芦浜の闘いのなかでも聞こえた

(注10)原発地域を「原発立地」と呼ぶことには違和感がある。「立地」の語源は、用地取得や住民懐柔など「立地させる」国・電力会社側の行為ではないか。反対運動のあることも含め「原発現地」と呼びたい

2012年9月24日 (月)

【書評】『アフター・リベラリズム』(藤原書店)-ウォーラーステインは、資本主義批判をやりとげたのか?

ウォーラーステインの『アフター・リベラリズム』は、1889年のソ連崩壊の直後から書きためられた論考の集成である。
私は彼を地政学的な歴史家として認識していた。その彼が初めて資本主義とそのイデオロギーの問題に踏み込んだという意味で、かなり期待してこの本を買った。また、68年の「世界革命」を時代的な画期とする点にも惹かれるものがあった。
ただ400ページを超える大部さに参り、ほったらかしになっていた。
改めて読んで書評を書こうと思ったのは、「アラブの春」や世界的な「Occupy」運動の可能性と未来を考えるためである。

クリックしてダウンロードしてください
「AfterLiberalism120923.doc」をダウンロード

2012年7月31日 (火)

【書評】北村博司『原発を止めた町』(現代書館)-原発現地の闘いをどう発展させるか

福島原発事故をうけて、原発関係の本の新刊・復刊が続いた。その大半は原発と放射能の危険性を説くもので、「何ミリシーベルト」という言葉がすっかり定着した。だが最も参考になったのは『原発を止めた町』であった。なぜなら、事故にしろ放射能にしろ福島に原発があったからこそ発生したのであり、その立地を止められなかったことが根本問題の1つだと思ったからだ。全ての原発をなくすためには、それが建設されてしまった歴史と原因を探るとともに、反面、実際に原発建設を阻止した闘いに学ばなければならない。

かつて原発が計画された23の地域・自治体のうち、7つで勝利したことは紹介した(注1)。例えば山口県・豊北町(現・山口市)では、漁民が農民・住民をオルグして中国電力に対する全町的な闘いを作り出し、また電産・中国の労働組合が職場から決起したのである。その7つのうちの1つが三重県の芦浜原発である。若狭湾と似たリアス式海岸の熊野灘に面し、いずれも漁業の町である南島町(現・南伊勢町)と紀勢町(現・大紀町)の境に位置する芦浜海岸に、中部電力の原発が計画されたのは624月のことだ。そこから「三重・芦浜原発37年の闘い」(この本の副題)が始まることになった。

●ついに「白紙撤回」をかちとった、37年間の闘い

北村博司は、この37年間を3期に分けている(P723)。

 時期

経過

運動の主体

1

63-67

62年、計画発表。66年「長島事件」と大弾圧。漁協の闘争態勢は崩れず、67年、知事が「原発問題に終止符を打つ」と発言し勝利

7漁協が主体、議員団は副次的

2

前期

84-97

紀勢町の条件付き受入れ表明で再開。95年から81万人署名運動。97年の「99年末まで冷却期間」とする南島町の請願が県議会で採択され、一時休戦

漁民の有志会と母の会組織が前面(注2)、漁協はバックアップ

2

後期

92-00

中部電力の攻勢に対し、93年、南島町議会は原発住民投票条例を制定。条例は95年に改正・補強。00年、知事が「白紙撤回」、中電社長も「断念」を表明

行動する反対派町議と有志会・母の会の連携

各期のターニングポイントとなるのは、①「長島事件」と大弾圧、②県民81万人の署名運動、③原発住民投票条例の制定―である。

「長島事件」は中部電力の環境調査を後押ししようと、中曽根康弘らが「現地視察」を試みたことが発端だ。国会議員らが乗った巡視船「もがみ」を港内で350隻の漁船が取り囲み、港外にも600隻が待機して出航を許さなかった。当初の計画は「芦浜沖で陳情を行う」ということだったらしい。だが、「古和(浦―筆者)の漁民は、芦浜沖集結の申し合わせを“忘れて”長島港に直行していた」(注3)。漁民の怒りに発する自然発生的な事件だが、1週間後の926日に家宅捜索と逮捕が始まる。91名が逮捕または取り調べをうけ、内25名が起訴、全員が保釈となったのは1114日だった。この前日、隙を狙って中部電力は紀勢町から芦浜精密調査の合意を取りつける。しかし漁民たちは300隻を動員して3度目の海上デモを敢行、運動の拡大を背景に全国汚水対策漁業者会議は絶対反対の決議を行っている(注4)。そのかん紀勢町が中電の調査を受け入れ、同町の錦漁協が条件付き賛成に転じていたが、残る関係7漁協の態勢は少しも揺るがなかった。結局、翌67921日、田中知事が「県の方針をここで180度転換し、原発問題に終止符を打ちたい」と表明、第1期の勝利が勝ちとられたのである。背景的には、63年段階で高谷副知事に書かせた覚書、「南島漁協役員全員協議会が納得しない限り、熊野灘沿岸で精密調査をさせず、したがって中部電力が、内閣総理大臣に建設許可申請書を出すことはあり得ない」(P31)―も大きな力になっていた。

●闘いの主体を重層化、拡大再生産した芦浜の闘い

 第2期の特徴は、行動的な漁民の有志会や母の会が運動の前面に立ち、闘いが重層的になったことである。また県が関連町村に働きかけて女川原発視察に職員を連れていったことに反発、9511月、南島町の闘争本部(本部長=町長)は全県的な「芦浜原発計画廃棄署名運動」を開始する。それを三重県平和・環境労組会議(教組が中心)や、市民グループを結集した県民署名ネットワークがバックアップ、署名は7ヶ月で81万人を突破した。それは県人口の半ばを越え、有権者だけでみても58%に達していた。ここで全県的な運動の態勢が確立、県の動きをしばることになったのである。これを背景に97年、「99年末まで冷却期間をおく」という請願が県議会で採択される。

 これと時期的にラップしつつ、最終的に知事に「白紙撤回」、中電に「断念」をせまる「究極のパンチ」「五年腐りの必殺拳」(P44)が仕掛けられていた。行動的な町議や有志会・母の会が進めた、原発町民投票条例の制定運動である。それは最初「過半数の町民の意志を尊重する」となっていたが、「三分の二以上の賛成がなければ否とする」に改正、さらに対象外になっていた事前環境調査申入れにも町民投票を広げることになった。これが実効力を持つことになった背景は、9412月の古和浦漁協臨時総会に反対する闘争である。漁協は海洋調査受け入れを議決しようとしていたが、女性を中心とした住民が徹夜で漁協玄関前に座り込み、機動隊のごぼう抜きに抗して闘いぬいたのである。翌朝、県漁連会長からファックスが届く。それは「確認書」締結の報告で、そこでは「中部電力は、漁協総会で調査受け入れが同意されても、南島町長、町内各漁協の同意を得るまで実施しない」となっていた。これが意味するものは何か。「これまで古和浦と方座浦の漁協組合員にしか同意権がなかった海洋調査実施に、町長や他の漁協も同意権を得ることになった。これは議会や、ひいては全町民も発言権を持つことになる」(P4142)―ということだ。従って原発町民投票条例は「究極のパンチ」となりえたのである。

 こうして全県的な反原発の意志形成と、実力行動がその有効性を担保することになった条例が、威力を発揮した。さかのぼれば中曽根を先頭とした「視察」を阻止し、弾圧に少しも揺るがなかった漁民・住民の団結があった。闘いと結束が民主主義を具現化したのだ。それらが「99年末までの冷却期間」をへて00年、知事の「白紙撤回」と中電の「断念」を引き寄せることになったのである。

●「心の傷が開いたまま」の、闘いの勝利

 とはいえこの勝利は、紀勢町・錦漁協の裏切り、また先に述べた南島町の闘いを牽引した古和浦漁協の脱落を伴うものだった。64年には、反対の姿勢が疑われていた錦と古和浦の漁民の間で乱闘があった(羽下橋事件)。これを機に、「錦女に古和男」と称された両地区の親密な関係が壊れ、古和浦に来た嫁は里帰りができなくなったという。また65年、南島町・新桑竈部落が中電の秘密工作に応じ、共有地を原発用地として売却したことにより、真珠養殖の作業員として働いていた地区住民は解雇された(注5)。県と中電に強いられたこのような分断と対立について、闘いの第1期が終わったあと石原義剛はこう書いている。「苦痛の多い、むくわれぬ勝利であった。紀勢漁民や新桑区民との心の傷は開いたままだ。勝って新たに得たものは、自らの団結を除いてなにもない」(注6)―と。

 このような原発に対する態度の相違、町や地域間の対立は何から生まれたのだろうか。同じく石原は南島町と紀勢町の漁業と漁民の違いについて、こう説明を試みている。南島町には近世いらい「大網」というボラ網漁法があり、村人総出で魚群を追いかけた。「熊野漁民が熊野水軍でもあった古い時代には、ボラ網はその平常訓練であったかもしれない。・・・培われた南島漁民の協同の精神は、いきいきと芦浜反原発闘争の中に甦っていた」、と。それに対し錦では数隻で船団を組む「あぐり網」が主流で、資本家である7人の親方が漁夫たちを仕切っており、漁夫はその言うままに動かねば飯が食えなかった。この協同の精神とボス支配とが、南島と錦とのズレを生んだ背景だというのだ(注7)。また主産業が真珠やハマチの養殖に変わった南島は原発の温排水被害に敏感だが、漁場が沿岸から遠い錦はほぼ実害がない。ここに中電や県が介入、分断を図っていく。錦漁協には調査への協力費のほか、中電から何億もの預金がつぎ込まれた。一方、南島・古和浦漁民への集中攻撃が始まる(P87~)。まずリーダー格の養殖漁民が「薬事法違反」ででっち上げ逮捕、翌年には古和浦と錦を標的にした「養殖ハマチは薬漬け」というTVキャンペーンが行われた。「南島の漁民」と名乗る賛成派の幹部が、「漁師は養殖ハマチを食べない」と話す内容だ。結果、養殖ハマチの値段が大暴落、養殖漁民は両地区で5分の1に激減、そのぶん反対派の勢力を削いだ。その他、弾圧・謀略・圧力の手練手管は枚挙にいとまがなかった。

●原発をなくすということは、都市―地方の関係を変えること

 ここから判ることは何だろうか? それは原発の立地について都会の私たちが考えがちな、「カネをもらって原発を容認した」という単純な事柄ではない。それは差別的な、「物象化」された考え方だ。①従来の生産と生活のあり方を破壊する、②カネやコネを使って地域や人々を分断・対立させる、③これに弾圧や謀略も加味して原発反対派を少数に追い込む――順序や軽重はともかくとして、起こったことはこれらの攻撃だった。勝利した熊野灘の人々も、これらの「開いた傷」を負うことになったのである。

 それでは原発をなくすことは、どのように実現できるのだろうか? 私たちは55日、商用原子炉の火が49年ぶりに全て消える瞬間を体験した。結果、「再稼働阻止」を叫んで幾万もの人々が首相官邸や国会を囲んだ。おおい原発の再稼働の後も「一度できたことは二度できる」という確信は揺らいでいない。他方、おおい原発の再稼働阻止闘争に向かった福井・おおいでの闘いは、ここ数カ月で劇的な変化を見せていると思う。526日におおい町で開かれた「もうひとつの『住民説明会』」で、地元の人々の口は重かったというが、それは当然だ。なぜなら芦浜と同じように「開いた傷」を背負っているからであり、また芦浜と違って闘いに敗北したからである。おおい原発に迫るトンネル前の抗議行動は、数10年の歴史を巻きもどし、二重の「傷」にもういちど向き合うチャンスになったのであろうか。

 原発現地の闘いを再建・発展させるベースは、基本的には芦浜での攻撃と真逆のことだ。すなわち①原発なしでやっていける生産と生活をとりもどすこと、②カネやコネと無縁な地域や人々のつながりを回復すること、③弾圧や分断にも負けない多数派を形成すること――である。これは全く当たり前のことのようだが、現に原発が立地している地域では、むろん困難であり時間がかかることだ。だが自前の生活と民主主義を再建する以外、原発の「根」を断ち切ることはできないだろう。原発建設を阻止した地域の、勝利の「鍵」も同じことであった(注8)。

そしてこれは現地の人々のみの課題ではなく、むしろ都市に住み、傷つくこともなく原発の電気を享受してきた私たちの問題と考える必要があるだろう。都市は高度成長のなかで農漁村の労働人口を吸収し、都市と農漁村の生産性の差を拡大させ、過疎の村々を作りだした。また政府は地方交付税制度を通じて地方財政の半分を左右し、官僚を送り込み、機関委任事務などを押し付けて自治体を「下請け」化した。その延長上に原発の押しつけがあったことは忘れるわけにはいかない。『原発を止めた町』は、原発をなくすということは都市と地方との関係の問題でもある、ということを改めて考えさせる本である。

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(注1) http://www.yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/911-2db0.html 参照

(注2)中村勝男『熊野漁民原発海戦記』(技術と人間、1982年刊)P127

「有志会」は方座浦地区で64年に結成された若者の自主的な組織「決死隊」が前身で、「行動が必要なとき、まず真っ先に働く」。第2期の闘いでは、85年には各地区で「有志会」と「母の会」続々と結成され、闘争の中心になった。なおこの本は、第1期のみを扱っているが、ぜひ再刊して欲しい本だ。定価1,800円に対し古本は5,000円ほど、全国の古本屋に数冊しか残っていない

(注3)同上『海戦記』P246

(注4)背景としては、「昭和30年頃から、四日市周辺の臨海工業地帯開発が進むとともに、海の汚染は増大し・・・漁民も工場へ乗り込んで実力行使」という事態があった。同上『海戦記』P50

(注5)以上は同上『海戦記』P84~、およびP129

(注6)同上『海戦記』の解説から(P251)。石原は鳥羽にある「海の博物館」館長で、原発反対運動を支えた

(注7)同上の解説、P255~ 

(注8)高知県窪川町の島田幹夫さんは、75年の計画に対し「町の農業・畜産・林業などで150億円の収入がある。230億円の税収に目がくらんではいけない」と主張して反対派を拡大、88年に町の方針変更、町長辞任をかちとった。http://www.janjanblog.com/archives/60796 参照

2012年6月17日 (日)

【書評】松島泰勝『琉球独立への道―植民地主義に抗う琉球ナショナリズム』(法律文化社)

沖縄の「復帰」40年にあたる今年、その意味するもの、歴史、結果、そして展望が数多くの人によって語られた。雑誌『世界』は特集「沖縄『復帰』とは何だったのか」を組み、『朝日新聞』では知念ウシと高橋哲哉が「復帰と言わないで」という対談を行っている(515日朝刊)。この時期の論調は例年、米軍の基地強化を論難し、単に沖縄の人々の闘いを称揚するものだった。しかし沖縄の人々と日本の私たちとの関係、日本の私たちの立場はよく見えないものが多かったと思う。だが今年はいくらか違ってきた。広範にと日米の軍事植民地としての沖縄の位置が語られ、沖縄に対する差別が指弾され、声高に琉球の独立が主張されはじめているのである。

しばらく前までは、これらの言説は沖縄の地域誌『うるまネシア』(注1)や、『けーし風』(注2)、沖縄の新聞などのなかにしかなかったように思う。普天間の代替え基地が問題になった際、97年以来の「米軍基地は本土に持って帰れ」という沖縄の声はまじめに受け止められなかった。また沖縄意見広告運動の報告集会で「テニアン島に誘致決議をあげてもらった」と、自慢話をする社民党の参院選候補者がいる始末であった(注3)。私は「植民地主義批判、琉球独立論に日本の私たちはどうこたえていくべきか?」と問いかけ、2冊の本を紹介したが、日本「本土」における運動へのインパクトはおぼつかない(注4)。ここへきて『世界』や『朝日』の論調は、私たちがようやく問題のスタートラインに立ちつつあると思いたい。

 

●沖縄人の自己決定権を考える、最良のテキスト

そのような風向きのなか、今年2月、松島泰勝『琉球独立への道―植民地主義に抗う琉球ナショナリズム』(法律文化社)が刊行された。『世界』の特集の冒頭で、新川明がこの本について書いている。「尖閣列島や基地問題も含めて沖縄の将来にかかわる問題を考えるときの前提は、私たち沖縄人の自己決定権の確保であるが、そのことを考える・・・最良のテキストが出るのに、『復帰』=『再併合』から40年という歳月を要したことに、改めて感慨を覚えずにはおれない」(P82)、と。

また同じく『世界』で仲里効と山田文比古は、この本が出るべくして出た背景を述べている。

①「日本復帰」運動は、自己を欺き疎外する「日琉同祖論」に基づき、植民地主義と戦争と占領の記憶を、国家の論理を内側から補完してきた

②無力化した68年以来の沖縄革新共闘―復帰協を越え、95年の少女暴行事件を内面化する「95年世代」が「反復帰論」を再発見していった(以上、仲里、P113~)

③鳩山の「最低でも県外」の理想主義的な発言が、経済発展で矛盾をかくす「宥和」派の正当性を奪った。一方、鳩山の路線は簡単に撤回され、差別の問題、沖縄と本土の間にある深刻な認識ギャップが浮き彫りになった(山田、P98~)――と。

なにも新しく「琉球独立への道」が語られはじめたわけではない。石垣島うまれの松島は、早くは「復帰」前後、71年の比嘉幹郎の沖縄「自治州」構想に始まる琉球の自治論を紹介し、批判する。

①「財政的裏付け(一括交付金)や既存の国の枠組み(憲法95条の住民投票)に基づいて自治を論ずることが「現実的」であると考えられてきた・・・(それは)裏切られ机上の空論になった」(P203

②「自治労沖縄県本部・・・(の)『特別県制論』は、日本政府と日本国民に対する過度の期待感や楽観論に基づく、復帰幻想の延長線上に位置する、自立論不在の復帰論である」(P195197

③「太平洋島嶼民の勇気と実践から学び、国連、国際法等を活用し、さまざまな手段を講じて、琉球人は自己決定権を行使する時期に来た」(P246

返す刀で日本人への不信を端的に表明する。「『沖縄問題』は日本人個々の内部を変革するエモーション

にはならず、自らが拠って立つところのものにはいささかも照明をあてようとしない」(P214)、と。

 

●独立を勝ち取ったミクロネシアと、軍事植民地とされた沖縄

 石垣島うまれの松島は、国際法や国連決議を豊富に援用し、自治や独立をかちとった太平洋の島嶼国家などの例を豊富に紹介する。それは方法的なスタンスのように見える。新川明が「復帰」思想について言う「日本国民化志向の精神史的な病理」(P211、注5)を、またそれによって狭められた沖縄の「自治」言説を相対化し、独立の現実性を明らかにするためだ。後者の点では、「国連、国際社会はこれまでの琉球人の運動により、琉球人は民族、先住民であるとみなし、基地の押し付けを人種差別であると規定し、その撤廃を日本政府に求めている」(P145、注6)――という重要な事実の指摘もある。

 太平洋の島嶼国家の例も、私には目新しかった(注7)。19世紀後半、太平洋諸島の植民地化が進んだ時期、琉球王国も日本に併合された。太平洋戦争後、琉球とミクロネシア諸島はアメリカの統治下に置かれた点は同一だ。だが、例えば信託統治領であるミクロネシア諸島では70年前後にアメリカとの協議がはじまり、自治政府の樹立をへて86年にミクロネシア連邦が独立している。ここで「信託統治領」ということが琉球とミクロネシアを分けるポイントだ。信託統治領は非自治地域=植民地と位置付けられており、「施政権者は『自治または独立に向かって州民の漸進的発展を促進すること』が義務付けられている」(P137)。

しかし沖縄は事実上、アメリカがポツダム宣言の「領土拡張の念も有しない」という合意を破って獲得した「戦利品」となり、属領とされた。「サンフランシスコ講和条約によって『将来信託統治領になる予定』の島であると規定されたがゆえに、国際法による保護をうけない、非常に不安定な政治的地位でしかなかった」(同)。国際法をかいくぐったあいまいな地位だったかもしれないが、しかし「不安定」だったのではない。沖縄は、「天皇メッセージ」によって恒久的な基地の島として売り渡され、そして72年「返還」をとおして日米の軍事植民地として固定されたのである。講和条約の締結時も「返還」時も、琉球の人々の自決権の行使はいっさい度外視された。植民地であれば、国連監視下で政治的地位に関する住民投票が義務付けられていたにもかかわらず――である。

 

●国家により背中合わせにされる、「差別」と利己的な「安全」

 松島は「国家回復のための琉球国復帰運動」(P242)を提唱する。琉球国600年の歴史に対し、日本統治と日米の軍事植民地の時期はたかだか100年くらいしかない、というのだ。日本への非暴力・非協力の運動、琉球の自立の理念を、究極的には「国」の独立として描いている。そして太平洋島嶼の人々の一員として、「琉球自治共和国連邦」のイメージを提供している(P248)。他方、「琉球を植民地支配する日本の基本法である憲法の枠組み、つまり日本という枠組みの中で反基地運動をしても限界がある」と述べる。立川反基地運動にとっても、深刻に受け止めるべき言葉だ。72年の米軍立川基地への自衛隊移駐=基地の「返還」という動きに対し、私たちは「返還」の内実を問い自衛隊移駐に反対する沖縄の闘いとどう繋がるか、が大きな関心事だった(注8)。なぜなら「復帰」に先立つ60年代に日本:沖縄の米軍基地面積はほぼ同等だったが、「復帰」時点で4674年中で13――すなわち現在の比率となった(注9)。日本の反基地運動が直接の被害がなければ良しとするレベルに熱が冷め、日米の新たな共同作戦体制が沖縄を軸に構築されはじめたからだ。そこでは「差別」と利己的な「安全」が、国家の手で背中合わせに編成されている。

知念もこのかん、琉球独立の暁には日本で用済みになった憲法9条を引き取る――というようなことを述べていた。いずれも強烈な日本人批判だ。私たちはこれにどう応えるべきだろうか。

『朝日新聞』の対談で高橋は「犠牲のシステム」(注10)について触れ、「原発はその典型」だとする。しかし一方で「戦争によって無理やり作られた基地と、地元の誘致や合意もある原発とは根本が違う」と規定する。また他方、基地負担の比率が74%であることによる「沖縄の人々」への犠牲をもって、原発と似ているとも言う。つまり合意の有無を論じるのだが「琉球人」という民族の自決権にまでは立ち入らず、犠牲の程度を測って差別の問題をあいまい化しているかのようだ(注11)。主体が見えないのである。それゆえ知念は、高橋が「植民地」という言葉を使うと、「いざ日本の人に言われると、ずしーんと悲しくなりました」と応じるのではないだろうか。知念が「日本人が基地を引き取って、嫌なら自分でなくしてほしい」と言い、二人の会話は次のようにして終わる。知念「高橋さんも、基地を持って帰ってくださいね」。高橋「それが『日本人』としての責任だと思っています」――と。高橋の言葉はいささか軽い。

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(注1)発行=21世紀同人会。例えば第10号(095月)の特集は「歴史を超える―薩摩侵略400年、琉球処分130年」。連絡先はTEL/FAX098-944-5025

(注2)発行=新沖縄フォーラム刊行会議。例えば第67号(106月)の特集は「国連勧告をめぐって―脱植民地主義と沖縄の自己決定権」。連絡先は netwind@atlas.plala.or.jp http://mangroove.shop-pro.jp

(注3http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-168a.html 参照

(注4)知念ウシ『ウシがゆく・・・』 http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-496e.html および

 新崎盛暉『沖縄現代史』 http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-d7e1.html 参照

(5) 新川明『沖縄・統合と反逆』(筑摩書房、2000年)より

(注6)以下に準拠した主張である。①先住民規定=国連「B規約」人権委員会の日本政府への勧告(P123

②基地押し付けは人種差別=先住人民の権利に関する国際連合宣言(07年)第301:先住人民の同意・要請のない軍事行動の禁止、2:軍事的な土地利用に関する先住人民との協議義務(P144

(注7)運動サイドからの調査報告として、山口響「海兵隊のグアム移転―誰のための負担軽減なのか(4)」(『季刊ピープルズプラン』第50号―2010春号)がある。

 http://www.peaples-plan.org/jp/ppmagazine/pp50/pp50-yamaguchi.pdf 参照

(注8)私たちが編み出した生煮え(?)のスローガンは「基地『返還』攻撃粉砕!」だったが、「基地が戻ってくる」と跡地利用計画づくりに沸き立つ、社共や一部の新左翼党派にはついに理解されなかった

(注9)新崎盛暉『沖縄現代史』岩波新書P26

(注10) 「ある人々の利益が、別の人々の生活や日常や尊厳などを犠牲にすることで成り立つ」ということ

(注11)辺野古や高江の基地建設に関する国連人種差別撤廃委員会の日本政府あて書簡(123月)は、06年「勧告」の「人種差別」という言葉を引用している http://www.imadr.org/japan/un/hrc/post-9/

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