経済・政治・国際

2016年4月22日 (金)

山内昌之『スルタンガリエフの夢』―ボルシェビキ革命の意味とは?

 スルタンガリエフは、タタール人である。1882年にカザン(注1)に生まれ、革命の年の1917年にロシア共産党に入党した。その動機は、「『普遍主義』的な自然権と社会的平等を共に達成しようとする社会主義が、異なる民族の利害対立つまり『民族問題』を解決する方策」(P348)、と考えたからである。そしてスターリンに抜擢され、イスラム教徒としてはめずらしく最高位の中央委員に上りつめる。中央ムスリム人民委員部などで要職を歴任した。その彼が、23年4月の第12回大会のしばらくのちに逮捕され、除名される。山内は言う。「スルタンガリエフの除名という過酷な措置は、スターリンが・・・体系だっておこなう民族共産主義にたいする本格的な攻撃のはじまりであった」、と。スルタンガリエフは28年にふたたび逮捕され、翌年の裁判で強制労働10年の刑となり、白海のソロフキ強制収容所(注2)に送られた。死刑に処せられたのは1940年のことである。
●「普遍主義」――資本主義が形成したイデオロギー体系
 山内昌之はこの本に、かなり長い序文と終章をおいている。テーマは「普遍主義」だ。「ボルシェビキとスルタンガリエフの対立の背景には、双方の『文明』に対する価値観の根本的な相違が絡んでいたように思われる。双方の対立は、世界の認識ににかんして普遍的に正しいと考える、何か意味をもち全地域にあてはまる一般的な定式化、つまり『普遍主義』が可能か否かをめぐる争いでもあった」(P17)。「普遍主義」というなら、その内容とともに、だれにとっての「普遍主義」かが問題となる。ボルシェビキからすれば、等しくプロレタリアとして住民を国家的に組織化することだった。しかし彼らは、当然、ロシア帝国の征服と諸民族支配の歴史を引きうけ、それと直面することを避けられない。
 もう一つの「普遍主義」の問題はより深刻だ。山内は言う。「ヨーロッパ文明の世俗的な価値観に『普遍主義』の根拠を見いだしたボルシェビキは、宗教が人民を退化させるアヘンであると信じ、資本主義の発展が開花させた科学や文明の可能性に全幅の信頼をおいていた」(P20)、と。この言い方は、ウエーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(注3)を彷彿とさせる。従ってまた、山内のボルシェビズムに対する手厳しい批判を含んでいるようにも見える。なぜならヨーロッパ文明の価値観とはプロテスタンティズムであり、世俗化した形では「資本主義の精神」だったからだ。それは「天職」を「修行」として全うすることによって、「神に選ばれた者」であることを確証するという宗教思想に基づく。その思想は「職業道徳」に解体し、功利的現世主義に代わる。レーニンの時代においては、金こそが神であるという「物神化」と「資本の意志の内面化」が、労働者階級のなかでも定着していたはずだ。また宗教は、科学・技術という新しい「宗教」への、それが物質化された機械への崇拝と従属ににとってかわられていた。山内によるとすれば、ボルシェビキはヨーロッパ文明に憧憬をいだき、科学がもたらす生産力の発展にロシアの行方を賭けていたことになる。プロテスタンティズムの欧州を追いかける限り、「宗教はアヘン」という天にはいた唾は、ボルシェビキの顔に落ちてくるはずだった。

●バクー大会――「共産主義の仮面をつけている植民地主義」

 ロシアの版図拡大は1552年のカザン征服に始まる。カザンの土地の三分の二がロシア騎兵軍の知行地となった。それは「のちの領土拡張や異民族の征服を『合法化』し、中央集権国家をつくりあげる帝国イデオロギーの根拠になった」(P45~)という。一方、タタール人が民族的に凝集したアイデンティティを持ちつづけることができたのは、信仰や言語への執着、征服者に対する憎悪と怨恨だった。ジャディーディズムと呼ばれるイスラム改革思想、それを社会・政治運動に展開するイスラーフ運動も起こる。そのなかでスルタンガリエフが模索したのは「社会主義への民族的な道」であった。彼はタタール人を「プロレタリア民族」(P168)と規定する。この聞きなれない言葉は、社会主義と民族独立を二つながら達成する主体の形成を期している。独立した「ムスリム共産党」も創立した。また、「植民地における民族革命の勝利こそ帝国主義の『中心』に打撃をあたえて西欧資本主義を崩壊させる」(P14)というのが信念で、「植民地インターナショナル」を構想した。これは西欧の「文明」を憧憬し、ヨーロッパ革命の成否にロシアの命運をみたレーニンとは180°、方角が違う。西欧の革命についても期待していない。「イギリスで革命が勝利したとしても、この国のプロレタリアートは・・・植民地を抑圧し続けるだろう。なぜなら・・・植民地の収奪に利害関係をもっているから」(P171)、と。この利害関係は、ロシア人とタタール人の間にも存在していた。
 1920年9月には、バクー東方諸民族大会が開かれている。ハンガリー革命に勝利したベラ・クーンも参加したが、大半はムスリムである。「スルタンガリエフにとって、バクー大会は『抑圧された民族』の西方に対する大規模な解放闘争の開始を象徴していた」(P251)。しかしボルシェビキはシニカルだったようだ。「レーニンは、民族自決に対しては形式ではあっても尊重することを求めた。スターリンはそれを露骨に侮蔑した」(注4、P224)。大会でムスリムが演説を試みると、赤衛兵が阻止した。トルキスタンから来たナルブタベコフは、「民族的で小ブルジョア的な東方の革命も必ず社会革命ににつながる」と主張、そしてこう演説する。「自分たちの反革命を片付けよ。いま共産主義の仮面をつけている植民地主義をかたづけよ!」、と。その演説には嵐のような拍手、ブラボーの叫びが寄せられたという(P253)。

●最後の「普遍主義」――国家に収斂する社会主義と民族主義
 ボルシェビキの「普遍主義」への指向が、プロレタリア独裁の「国家」と、「資本主義の精神」にに収斂するものであったことを見てきた。新しい「神」としての科学・技術への信仰は、1928年から繰り返される5カ年計画の生産力主義に展開する。それは後に法外な資源の浪費と自然破壊により、生産性の大きな低下をもたらして、ソ連崩壊の遠因をなした。また、「ペレストロイカは・・・民族の火山を噴火させただけでなく、ソ連を民族の戦場に変えるエネルギーを引き出した」(注4、P250)。
 20年の共産主義インターナショナル第2回大会で、レーニンは次のように指示した。「ハン(汗―東方諸国の国王)、地主、ムラ(回教の僧侶)等の地位を強化する汎回教主義・・・と闘争しなければならない」、と(注5)。この一貫した方針が、民族問題の解決への道を閉ざした。具体的にはそれは「反宗教宣伝」として展開された。ロシア人宣教師をつかった強圧的な進め方に対し、スルタンガリエフが介入している。彼の見解はこうだ。「宗教そのものとけっして対決するのではなく、自分の無神論的な信念を、ごくあたりまえの権利として宣伝する」、と(注6)。
 実際のところ「反宗教宣伝」は、ムスリム抑圧の手法でしかなかった。ロシアでは現在、正教徒が75%を占め、無宗教は8%に過ぎない。イスラム教徒はほぼ6%である。抑圧と苦難がある限り、宗教がなくなることはありえない。そして社会主義と民族解放が、いずれも国家の創立としてしか実現されないとすれば、スルタンガリエフの「夢」は中途で閉ざされてしまう。「普遍主義」の根、資本主義を掘り崩さねばならない。

(注1)モスクワ東方800キロ、ステップ経済圏との境に位置する城塞都市。1552年にロシア
 が征服し、シベリアへの版図拡大の拠点となった。レーニンはカザン大学で学んだ
(注2)ソルジェニツインの『収容所群島』で知られる。27年段階で収容者は2万人。その後も
  増え続けて数10万人に達し、うち数万人が死亡したという
(注3)私のBlog「差別の形成は、どう成し遂げられたか―ウエーバーから考える」参照
 http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-6c43.html 
(注4)山内昌之『ラディカル・ヒストリー』(中公新書)P224
(注5)「民族植民地問題にかんするテーゼ原案」(『帝国主義と民族・植民地問題』国民文
  庫)
(注6)山内昌之の論文「イスラム世界とロシア革命(Ⅰ)スルタンガリエフの革命理論」
 http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/21667/1/jaas015007.pdf

2016年4月 8日 (金)

「プロレタリア法」なるものは存在しうるのか―ロシアの事例から

 レーニンの『国家と革命』には、法または法律という言葉は、ほぼ1か所しかでてこない。「社会は、すべての市民が表面上平等となり・・・万人が法の前に平等となった。法律は・・・プロレタリアによって・・・市民(=ブルジョア)の財産が侵害されることのないように保護する。これが資本主義社会である」(国民文庫P171)。
 これを書いた1917年8月、10月革命は目前であった。また蜂起の機関である労働者・兵士代表ソビエトは、勝利のあかつきには憲法制定権力として立ち上げられるはずであった。「武器による批判」が問題になっているとき、法について長々と論ずる必要はなかったのだろう。だが革命の勝利の後、プロレタリア独裁から共産主義の高い段階に至る期間において、法の命運が問題となる。
●パシュカーニス『法の一般理論とマルクス主義』(日本評論社、注1)
 1930年前後に活躍したソ連の法学者パシュカーニスは、法の一般理論が成立可能だと考えている。「法の一般理論は、基本的な、すなわち最も抽象的な法律的概念の展開である」(P45)、と。ひるがえって「マルクス主義者の同志」の所説を批判する。彼らは法を「いろいろな利益間の闘争の結果として、あるいは国家的強制のあらわれとしてとりあつかう」。「(それに加えて)階級闘争の契機をいれれば十分であると思っている」(P51)、等々である。これはあたかも、冒頭に引用したレーニンの説明を不満とするかのようだ。パシュカーニスは、法的概念を内容面のみで考え、形態は問題としないことに異をとなえているのである。彼のモチーフはこうだ。「マルクス主義理論は・・・法的規制の実質的な内容だけでなく、特定の歴史的形態である法的規制そのものの唯物論的な説明もしなければならない(P52)。
 この「形態」という言葉に、パシュカーニスの法理論の方法が端的に出ている。すぐに思い出されるのは、マルクス『資本論』の冒頭、価値形態論だ(1巻1章「商品」)。あえて対比を試みてみよう。
 X商品A=Y商品B・・・X商品のA量は、Y商品のB量に値する(・・・「簡単な価値形態」)
 X犯罪A=Y刑罰B・・・X犯罪のA量は、Y刑罰のB量に値する(・・・刑法の場合。注2)
X犯罪Aが能動的な役割を演じ、Y刑罰Bが受動的な役割を演じる。この関係では、Y商品Bが価値形態の発展において貨幣に転じるように、等価形態にあるY刑罰Bはいずれ法律として発展し、「物象的形態」をとることになるだろう。形態を論ずることによって、対象を運動と発展において捉えることができる。
 マルクスは富の原基形態としての商品の分析から始めた。同じようにパシュカーニスは、法の二重性格、すなわち法が規範(べきである)と、権能(権利を主張・行使する能力)への分裂がおこるとする。また公法(憲法、刑法など)と私法(民法、商法など)との対立が起こる。そのさい彼は、「主観的法(私法)のほうが、第一次的なもの」(P102)とする。なぜなら、「国家の法律的理解は理論となることはありえない」(P98)からである。
 私法について彼が援用するのは『資本論』1巻2章「交換過程」だ。「物を諸商品として相互に連関させるためには、商品保護者たちは、自分の意志をこれらの物にやどす諸人格として、振舞わなくてはならぬ。・・・両者に共通な一つの意志行為に媒介されてのみ、自分の商品を譲渡することによって他人の商品を吾がものとするのである(青木書店版)。意志行為とは契約であり、意志関係とは端的に法的関係だ。したがって「基本的な法律的概念の弁証法的発展は・・・ブルジョア社会の・・・発展の現実的・歴史的過程を表現している」(P57)。――これが彼のめざす「法の一般理論」の枠組みであった。

●法的関係の死滅=「旧社会の母斑」を洗い流すこと
 ここで彼は、1つの反論に応答している(P59)。反論とは、「(パシュカーニスが)分析の基礎としている抽象は、ブルジョア法のもとでしか存在しない」、というものだ。「プロレタリア法については、これと違った一般的な概念を発見しなければならない」、と。これは一見、もっともな主張に思える。だが、それに対する彼の回答は辛らつだ。「プロレタリア法のために、あたらしい一般的な概念をもとめるという方針は・・・法の形態をその全盛を保障する一定の歴史的条件から切りはなし、それがたえず更新されうるものであることをのべ、これによって実際には法の形態の不滅を宣言しているのである」、と。「一定の歴史的条件」とは資本主義社会のことだ。何かが残るとすればブルジョア法である。すなわちパシュカーニスは、プロレタリア法の成立を否認する一方、ブルジョア法の死滅を論じようとしている。「価値、資本、利潤などのカテゴリーは発展した社会主義への移行とともに死滅するが・・・それがプロレタリア法のあたらしいカテゴリーとと交代することを決して意味しない。法の一般的死滅を、すなわち人々の関係から法律的な契機がだんだんと消えていくことを意味する」(P59~60)、と。
 マルクスは『ゴータ綱領批判』で、共産主義の第1段階について語っている。まず生産者は生産物を交換しないがゆえに、価値のカテゴリーや物象化は現れない。しかし第2に、個々の生産者は必要な控除の後、彼が社会に与えたものを正確に取り戻す。それは等価物の交換ではあるが、労働と消費手段の交換でしかない。第3に分配における生産者の平等の権利は「尺度の平等」、すなわち唯一労働時間で測られることにある。またレーニンは『国家と革命』で、等価交換について次のように述べる。「第一段階の共産主義のもとには『ブルジョア的権利の狭い限界』が残っている・・・消費物資の分配についてのブルジョア的権利は、もちろん、不可避的に、ブルジョア国家をも前提としている。なぜなら、権利というものは権利の基準の遵守を強制できる機関なしには、ないも同然だからである」、と。二人の所説には何の幻想もない。
●権利―義務関係が消え、法も国家もない社会をめざして
 人びとの関係から権利―法律ー国家という概念が消えていくことは、最終的には何をもって可能となるのだろうか。「共産主義のより高い段階に」についてマルクスは語っている(『ゴータ綱領批判』)。「分業の下における個々人の奴隷的依存、それとともにまた精神的労働と肉体的労働との対立が消滅した後、労働が単に生活手段ではなくて、第一の生活の必要にさえなった後、個々人の全面的発展とともにまた生産力が成長して協同組合的富のすべての源泉が横溢するに至った後」――その時はじめて狭隘なブルジョア的権利の地平は全く踏み越えられるというのである。ここで生産力の発展とは、単に物的な意味でのアウトプットを意味しない。まさに個々人の全面的発展こそが自己目的であり、労働の意味が変わり、コミューンの富も全面的であろう。パシュカーニスは本書に編み込まれた別の論文、『国家と法の理論』で次のように述べている。「階級が消滅し、労働が第一義的な生活の必要にかわり、『各人はその能力におうじて、各人はその必要に応じて』という原則が作用している共産主義社会は法を必要としないだろう」(P228)、と。そのとき国家は、法とならんで死滅する。
 パシュカーニスの理論は、法の形態を交換過程における意志から導いたことが「基本的欠点」とされた。とすれば、意志の物質的基盤をどこに求めるのか。彼の論敵であるストゥチカは生産関係に求めたが、貧弱にも、法を「支配階級の利益と、組織された権力によるその保障に対応する関係の体系」(P84)としか規定できなかった。一方、パシュカーニスが、ソビエト法を国家とともに死滅すべき過渡期のブルジョア法と位置づけたことは、「国家転覆をめざす無政府主義者」とも指弾された。彼は1937年、トロツキストとして粛清された。名誉回復されたのはスターリン批判の後のことだ。
(注1)1927年の第3版の訳書。58年出版。「日本の古本屋」で1冊だけ販売されていた。
(注2)このような検討が成立する根拠は、「刑法は・・・等価交換の変種の一つを・・・体現しているときにはじめて、法律的上部構造の構成部分となる」(P187)。

2014年10月13日 (月)

エネルギー産業の植民地主義―織井青吾『方城大非常』をめぐって

石炭に関わる本を読んだのは、上野英信『地の底の笑い話』(岩波新書)が最初である。山本作兵衛の挿絵に魅せられ、鉱夫達の労働、生活と文化に驚きがあった。そんな話をずいぶん齢のはなれた女性にした。すると彼女が沖縄に引っ越す際、炭鉱にかかわる本を「もう読むこともないから」と、ごっそり私にくれた。そのなかの1冊、『方城大非常』のカバーの裏に手紙が挟まっているのに気づいたのは、ずいぶん後になってからである(注1)。

「私は1929年、この方城炭鉱の社宅で生まれました。つまりこの本の大事故1914年よりは15年後で、父は炭鉱の医者として採用になった頃かと思います。かなり古い時代の事故なワケです。しかし極く幼かった私にも、『非常の・・・』、『ガス爆発の・・・』という言葉の記憶があり・・・断片的には耳にしていたことでした」、と記されていた。

 

●「方城大非常」の死者たちは、どこから来たのか

1914(大正3)年1215日、三菱合資会社の方城炭鉱で炭塵爆発が起こり、公式発表で671人の労働者が死亡した。第1次世界大戦が勃発した年である。この数字は、1978年までの事故統計で世界3位――(注2)。ただし織井は、1人当たり採炭量の統計や、2直で縦坑を降りる労働者の総数から推計し、死者は1,300人を下らないと言う。死者が1,000人を越すと操業停止になるので、700ほどの死者が記録から消されたのだ。こういう「非常」は、実は「日常」であった。同年、福岡鉱務署管内の170,220人の坑夫は98,012回の大小の「非常」にみまわれ、のべ96,766人が、すなわち2人に1人が死傷していた。

 織井は、先山・後山のペアを組んだ野上熊吉・アヤノ夫婦と、長女カズエの家族の遍歴をていねいに追っている。「熊吉の生家は3反の水田と1反の畑しか所有しておらず、あとは小作にたよるしかない貧しい農家であった。・・・この地方でいうスネヌキ、口減らしの出稼ぎは、次男の彼に当然のことであった」。熊吉の生家は広島県の山間部、高宮町(現・安芸高田市)である。地主は明治の中ごろには、全耕地の50%を所有していたという。小作人は、2月には常食の麦も底をつき、7月の新麦の収穫までのかん地主から麦を借りる。ところが世話人に10%の手数料をとられる。借用証書は「米借用」と書かされ、麦を米で返すことになり、10月の収穫まで25%の利子を払うことになる(『高宮町史』)。こうして耕地の収奪がさらに進む仕掛けだ。熊吉は、「不具」になって自死した兄の嫁と結婚し、連れ子のカズエをともない、「スネヌキ坑夫」として方城に出向くしかなかった。

 このような物語は当時、少しも希ではない。同じく明治の中ごろ、鐘淵紡績(現・カネボウ)東京工場で働いていた女工は、2,200人のほとんどが広島出身だったという。「女工哀史」の物語は有名だ。だが坑夫の場合、歴史的に「下罪人」として出発したことが違う。明治初期に官営・三井三池炭鉱は、囚人を採炭に従事させた。その後の「納屋制度」について、雑誌『日本人』(明治21年)に吉本襄の記事がある。「岩崎(弥太郎)氏は請負人すなわち納屋頭なるものを設け、坑夫を雇入れかつ取り締まりをなさしめたり。納屋頭は各地方の博徒その他の者に依頼し、ほとんど誘拐同様の手段にて雇入れた」、と。「取り締まり」は、募集からはじまり、逃亡防止、入坑促進、ノルマ強制、反抗者へのリンチ、賃金支払い、と多岐にわたる。納屋頭のピンはねは10%におよび、敷地内の売店は納屋の直営で、売値は市価より20%近く高かったという。

 

●大事故と、炭鉱夫の過酷な支配をもたらすもの

記録的な死者を出した「方城大非常」と、納屋制度を基礎とする炭鉱の背景は何だろうか。

日清戦争と日露戦争で利を占めた日本は、第1次大戦にも参戦、北太平洋のドイツ植民地を奪い、「21カ条要求」を中国に押し付けた。帝国主義諸国の植民地再分割戦である。それより以前、日清戦争が終わるころから八幡製鉄など製鉄業が勃興、190818年で石炭産出量は3倍に増える。航空機、戦車、毒ガスなどの新兵器を繰り出した、第1次大戦が拍車をかけたのは明らかだ。戦勝で得た賠償金と植民地の権益をテコとした、日本の重化学工業テイクオフの場面である。炭鉱資本は、農山村の疲弊と相対的過剰人口の析出を利用し、人海戦術で対応する。このとき納屋制度は、囚人労働の歴史を引き継ぎ、誘拐もどきに「スネヌキ坑夫」を狩りあつめ、過酷で危険な労働に追いたてる道具だてであった。しかも坑夫達は納屋頭の間接雇用で、炭鉱資本は責任を負わない。「大非常」も、人海戦術の一方、坑内の散水や空調などの安全対策をおざなりにした末の炭塵爆発であった。事故後、天皇が送った勅使の言葉はこうだ。「このたびの非常は、御国のために戦って戦死したのとおなじことである」、と。戦争と重化学工業化と棄民政策――。その結果、無念な事故死が「戦死」と称揚されたことは、後の総動員体制のもとでの「産業戦士」という言葉を想い起こさせる(注3)。

マルクスは『資本論』の冒頭ちかくで、「労働は質量的富の父であって、土地(=自然―筆者)はその母である」、と述べた。資本主義はこの2つの自然力を、一方は再生産費用を支払うだけで、他方は無償で我がものとする(注4)。つまり労働力は実費のみの支払い。それを前提にすれば、地下資源は無償で母なる大地から剥ぎ取られる。ところで資源は、鉄鉱石などの物質と石炭などのエネルギーに区分される。炭鉱とそこでの労働は、他の鉱業と大差があるわけではない。だが例えば鉄鉱石という物質はコークスを用いて精錬され、エネルギーの力を借りて加工されて、初めて機械などとして役割をはたす。ところが石炭は、地下から現れた姿のままでエネルギーだ。また機械と結びついて、全産業分野で剰余労働時間の拡大を行う。ここに炭鉱資本のボロ儲けと財閥形成、国策産業としての手厚い国家保護の秘密がある。安全対策が軽視され、死者が「戦死」になぞらえられたのは、まさに国策の故だったからなのだ。まして事故当時は、至上の国策としての戦争のさなかだった。

 

●納屋制度をひきつぐ、多重下請けの原発労働者

原発労働者がおかれている境遇は、方城の炭鉱夫たちと寸分ちがわない。多重下請け構造は、土建業の「飯場」の構造を引き継いでいると言われるが、大元は炭鉱の納屋制度であろう。納屋頭は今日の下請け企業主だ。労働者は炭塵のかわりに放射能にまみれ、幾重にも重なる下請け構造のもとで強収奪を受けている。そして原子力発電が、国策として推進されていることも同じである。

 なぜ電力会社という近代的な巨大企業のもとで、しかも国策として推進されている原発において、「封建的」とも言える労働のあり方が存続しているのか。反原発―原発労働者支援の運動に関わり始めたころ、私には素朴に疑問であった。その理由はおそらく、巨大企業であることと国策であること、しかも汚く不健康な労働が強いられるということそれ自身に求められるだろう。巨利をむさぼる巨大企業だから、責任を回避して現代の「納屋頭」に丸投げしなければならず、多重下請け構造のもとで強収奪が行われる。国策であるから、厚労省など官庁がその構造に本気で介入することができない。「汚い労働」という差別意識が広範かつ根強いから、労働者は福島原発事故の当初のように「神様」とあがめたてまつられるか、昨今のように忌避される。いずれにしろ人間ではないのだ。かつて九州の炭鉱労働者は、「タンコタレ」と、蔑称で呼ばれていたのだった。

 これを打破するには、どうしたらよいか。

63119日、戦後最大の労災事故である三井三池炭塵爆発事故が起こった。死者は458人、CO中毒患者は労災認定がおりた人だけでも839人である(注5)。この事故は60年の三井三池の大争議の敗北と、第2組合の結成をうけて、明らかに安全対策がネグレクトされたことが原因だ(注6)。裏返してみれば、労働者の団結と職場での闘いだけが労働者の安全と健康を守る、という当たり前の事実につきあたる。労働者の誇り高い労働と闘いも、その団結においてのみ達成されるだろう(注7)。また、原発は「原発のある町」として地域社会を再編成し、住民の意識と生活を支配することも忘れてはならない。

*この本をくれた人は古川雅子さん。2014526日没

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(注1)『地の底の笑い話』(1998年)も『方城大非常』(朝日新聞社1979年)も、残念ながら品切れのようだ。

(注23位とはいえ、1位と2位はいずれも日本の植民地である「満州国」での事故で、1,527人と917人が犠牲となった。炭鉱夫数に対する死者の指数は、日本は2位・3位であるカナダ・アメリカの2倍だ(1935年)

(注3)古河好間炭鉱あと(いわき市)に「産業戦士」の像(1944年作)が立っている。1人は旗を掲げる鉱夫、もう1人はスコップをもつ少年鉱夫だ。http://blogs.yahoo.co.jp/danjiki1975/64848845

(注4)この部分は、以下を参照。http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-76ea.html

(注5)方城の事故では、CO中毒はあまり重視されなかったようだ。患者は痴呆者として扱われた

(注6) 『福島・三池・水俣から「専門家」の責任を問う』(弦書房)参照

(注7)団結の課題については被曝労働ネットワークのHP参照。http://www.hibakurodo.net/

2014年6月22日 (日)

原発事故時、「避難が危険というなら避難するな」――原子力ムラ糾弾

 

613日、鹿児島県議会の初日に合わせた1,100人の県庁抗議行動が行われた。そのさなか、伊藤知事は要援護者の避難の問題について、「原発から10キロ以遠の計画は作らない」と発言した。物議をかもし、18日の代表質問をうけて釈明したが、「国の動向を見て検討する」という趣旨で、決して発言を撤回したわけではない。この自信ありげなスタンスは、避難計画に関する国・規制委の方針変更に由来している。中央の政治に敏感な天下り知事の、単なる暴言ではない発言だったことが問題なのだ。

 方針変更は、528日の規制委員会会議に提出された「緊急時の被ばく線量及び防護措置の効果の試算について(案)」(注1、以下「資料2」)に、その端緒が現れた。あまり注目されてないようだが、この「資料2」のデータを「新たな知見」として、いわば「避難が危険だというなら避難するな」という反原発運動への「切り返し」がいっせいに始まったのである。

●放射能放出を過小評価し、屋内退避の効果を過大評価する規制委

 「資料2」が主張するのは、以下の通りだ。「PAZ5キロ圏内―筆者)では、放射性物質の放出前に、予防的に避難を行うことが基本。/ただし、予防的な避難を行うことによって、かえって健康リスクが高まるような要援護者については、無理な避難を行わず、屋内退避を行うとともに、適切に安定ヨウ素剤を服用することが合理的」、と。その根拠とされるのが、(注1)の「別紙」に示される「防護措置をしない場合」と「同・する場合」の被ばく線量の対比表だ。屋内退避により、木造家屋では25%、コンクリート構造物では50%、被ばく線量を低減できるというのである。

 だがそこには、事故想定の過小評価、仮定の誤り、被ばく基準の恣意的な引きあげ、ウソ等がある。

①放射能の放出について、炉停止から放出開始まで12時間、一定の割合で5時間継続と言っている。この規則的な放出は事故ではなく、ベント実施しか意味しない

②総放出量は100TBq としてシミュレーションを行っているが、これは東電が計算している福島原発事故における3月中の放出量、900PBq1万分の1に過ぎない(注2、なおPBqはTBqの1,000倍)。ここで過酷事故は想定外なのである

③それでも「資料2、別紙」のグラフによれば、木造家屋内で最大284mSv/2日、平均値でも63mSv/同(原発からおよそ2.5キロ地点で)にのぼり、平均的な人でもIAEA基準の100mSv/週さえ超える。

④しかも木造家屋内への退避効果を「25%低減」としているが、これは全くのウソだ。旧原子力安全委員会の資料「屋内退避等の効果について」と対比すれば一目瞭然である(注3)。実際には③の数字の1.3倍強になる

アメリカ環境保護庁(EPA)の「指針」は「堅牢なビル内か地下室」を指定している。そんな建物は原発近傍にはとんと見当たらない(注4

⑥コンクリート構造物内でも20%低めの線量見積りだが、いずれにしろ一般人の基準(1mSv/年)からすれば法外な値になることに変わりはない

●要介護者を閉じ込め、救出のめども立たないシェルター

 「避難は無理」という批判に対する規制委の反発は、こうして嘘に嘘を重ねる代物であった。とはいえ政府・自治体は、「眼に見えるモノ」をもって批判に対抗しようとしている。それは薩摩川内市の5キロ圏内2地区に、66日までに完成した「一時避難施設」(シェルター)だ。その直後、同様な「防護室」が敦賀市西浦小でも完成している。この時期を見計らって、規制委の方針転換や伊藤知事の暴言もあったかもしれない。実際に、廃校となった寄田小(原発境界から1.9キロ、先のデータの最過酷地点より近い)に出かけてみた(注4)。

 寄田地区をビラまきで回ってみると、若い人をついぞ見かけない。「原発の放射能を嫌って、若い夫婦と子供は引っ越してしまった。さびしい」、という話をよく聞く。自治会長と薩摩川内市の担当課長との間で、次のような会話が交わされたと報道された。自治会長「1人で何人もの要介護者を助け出さなければならない」。課長「地域の人々で助け合ってやってください」――と。まるで「丸投げ」だ。

 それでもともかくシェルターに到着すると、体育館のステージを改造した施設は、とにかく狭い。103平米に52人を収容する計画だが、11畳分のスペースで出来ることは雑魚寝でしかない。要援護者の介護者や機材のスペースも確保できないだろう。かつて福島原発事故の際、30キロ近くにわたる渋滞のなか、車という狭い密閉空間のなかで60人もの方々が亡くなったという。これと同じ環境だ。またこのシェルターは4日間しか存続しえない。3重のフィルターを通して外気を取り入れ、内圧を上げて放射能流入を防ぐとのことで、裏に回ると空調器、その発電装置、燃料タンクがある。ところがタンク容量は950リットルで、きっちり4日分だ。燃料が切れたその時、2.5キロ地点でも最大被ばく線量7.9mSv/h284/2/24時間/0.75)、平均1.8Sv/h(同様の計算)という、福島の事故現場を上回る環境である。それより過酷な1.9キロ地点に、事故終息の緊急作業の一方で、いったい誰が救出にやってくるというのか。国・自治体の「切り札」は、実際にはこの程度のものでしかない。

●避難拒否の「思想」を、私たちは構築できるか?

 ここで避難をめぐる運動とその論理が、補強される必要が見えてくる。新しい対立構造は、避難は無理だから原発は再稼働するなという反対派と、無理な避難はしなくてよいようにするから再稼働させろという「原子力ムラ」――である。しかし一時避難施設には持続性も、そこからの脱出の見込みもないことは明白だ。また要援護者の問題だけでなく、すべての住民の健康と財産、すなわち生活が守られるべきことに変わりはない。当面、敵の「切り札」に批判を集中することが重要だ。同時に反対派と推進派との間で奇しくも「避難しない」、「避難させない」という点で「一致」したことを、どのように考えるかが問題となる。

 井戸川元町長は、かねて「避難しない」と主張してきた。それは仮に避難が数日で完了したとしても、それに続く長期の避難生活の苦難を問題にしている。福島で営々と築いてきた「社会」を壊され、慣れた「仕事」を奪われ、家族としての「生活」をバラバラにされた体験による。そこでは避難の強制そのものが人権侵害なのである。「原発こそが避難せよ」という主張は、原発のない社会を見据えている。同じく521日の福井地裁判決は、「人格権」という法理をもって電力会社の安全性軽視と営利主義の体質を批判し、大飯原発の再稼働を差し止めた。そこには共通して、原発事故やそれにともなう避難など、「緊急事態」と「超法規的政治」を拒否する思想がある。「安定・安全な生活が基本だ」、と言うのである。シェルターの思想と対比すれば明瞭だ。シェルターは、核戦争の勃発を前提し、大金を投じてそれを構築できる人たちだけが生き残るためのものである。本来それは核戦争を許容し、差別的なものだった。寄田などの「シェルター」は、しょせん要介護者を放置するための「姥捨て山」に過ぎない。

 私たちは、「避難計画ができていないなら、原発を再稼働するな」と主張してきた。うがった見方をすれば、完璧な避難計画ができれば再稼働を許すのか、という説も成り立つ。井戸川さんが言うように避難自体が人権侵害であり差別だとすれば、もちろんそんなバーターはあり得ない。だとしたら私たちは、もっとはっきり言うべき段階に来たかもしれない。緊急事態や超法規的な政治は許さない、避難が強要されるような原発社会は拒否する、と。生活と権利を主眼にした、当たり前の思想と政治である。それによってのみシェルター建設路線を本格的に批判し、原発再稼働を阻止することができるのではないだろうか。

*なお、放射能の放出はなかったものの、激甚災害として95117日の阪神大震災があった。そ の5カ月後、『震災の思想―阪神大震災と戦後日本』(藤原書店)が発刊されている。そこでは「正常状態の充実」が1つのキーワードで、「緊急事態」を拒否する政治―経済―社会が論じられている。別途、時間を見つけて紹介したい。私たちは「避難拒否の思想」を産み出せるだろうか。

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(注1https://www.nsr.go.jp/committee/kisei/h26fy/data/0009_03.pdf 参照

(注2)「福島第一原子力発電事故における放射性物質の大気中への放出量の推定について」

 http://www.tepco.co.jp/cc/press/betu12_j/images/120524j0105.pdf のP6参照

(注3)同文書では屋内退避を、「屋内に入り、建物の機密性を高め、口及び鼻をタオル等で保護すること」と定義している。それでも添付された表では、「木造家屋で浮遊放射性物質のガンマ線による被ばくの低減係数」は0.910%減)に過ぎない。 ところが529日の院内交渉で規制庁は、「窓等の『目貼り』で内部被ばくを含め40%減少する」と言った。25%にしろ40%にしろ、明らかにダブルカウントの嘘である

低減係数:http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail/php?Title_Key=09-03-03-02

(注4)もう1つの施設がある久見崎の旧滄浪小は、原発境界からおよそ1.2キロでより原発に近い

(注5)アメリカ環境保護庁(EPA)の「原子力災害時の防護対策指針」(改訂ドラフト、13415日)は場合により屋内退避を選択するとし、堅牢なビル内(低減係数=40%)や地下室(同60%)を指定している

「指針」の要約:http://www.jaea.go.jp/04/shien/research/EP002.html

 

 

 

2014年6月 2日 (月)

川内原発の再稼働を阻止する大衆行動を実現しよう

原子力規制委員会が川内原発の「優先審査」を表明、事実上、再稼働のトップバッターと名指しした。それは九電が基準地震動を620ガル(注2)と回答したという、技術的な理由ではない。鹿児島県知事と薩摩川内市長の、積極的な再稼働容認姿勢による。4月頃の原発労働者の話では、「九電から『お盆休みはない』と言われた。再稼働はお盆明けとずいぶん前から決まっている」ということであった。まず政治判断と政治日程があり、9月とも言われる再稼働がめざされているのである。

最初に結論を言っておく。

川内原発現地での闘いの成否が、全国的な再稼働の「嵐」の行方を決める。それゆえ各地の方々が川内を見つめ、そこへの集中を検討、実際に行動を開始している――と。

この小文では、鹿児島での世論状況を紹介し、どう住民間の議論を活性化し、闘いの顕在化を図っていくか考える。

 

●再稼働反対の世論が五九%、賛成が三六%と大差

55日の『南日本新聞』は、鹿児島県民を対象とした原発再稼働に関する世論調査の結果を発表した。「反対」が59%、「賛成」が36%――。大差で再稼働への拒否が表明されている。

反対理由のトップは、「福島の事故原因が究明されていない」(44%、複数回答)で、「安全性」への疑問が強い。また再稼働への同意権(=拒否権)に関しては、県と薩摩川内市に限るという意見は7.4%に過ぎない。すなわち、放射能被害が広範囲に及ぶことへの認識、自治体や住民の自己決定権の主張が顕著である。「地元を設定するのはおかしい」という意見も、28%にのぼった。

しかし世論調査への回答は、内心の意思の表明にすぎない。それが住民相互の自由な「会話」に発展するか、更に目に見える運動に転化するかは、また別の問題だ。

  

●住民の対立を強制し、自由な討論を阻む九電

この点では第1に、特に薩摩川内市内で作り出されている、賛否の対立状況を考える必要がある。

いま市議会に、原発再稼働の促進を求める請願が提出されている。薩摩川内市原子力推進期成会が提出したものだが、その実体は商工会議所。その重鎮は九電川内営業所。72団体の構成だが、陳情は理事会のみで決められ、中小の構成団体には不満もあるという。しかし陳情を出したことによって、市内の対立状況が「演出」され、それが住民の口をふさぐことにつながっている。

だが、戸別ビラまきのなかで私が「よそ者」であると見ると、意見、情報、苦情が驚くほど集まってくる。4月中で1,200枚ほど地域でまき、ほぼ1%の人々と20分ていど話し込んだ。例えばある女性は言う。「原発に通じる県道は事故時、渋滞で使えない。山越えの市道で逃げるしかないが、崩れて車がすれ違えない。市に頼んでも直してくれない」――と。見に行ってみると、軽自動車でもすれ違えないことが判った。また、「この地域で住民投票ができれば必勝。投票にもちこむまでが大変だが」、と構想を語る人もいた。

 

●「外」に向かった運動拡大の必要性

 第2の問題は、皮肉なことに、70年代以来の建設阻止闘争の歴史、反対運動の組織(労組・市民団体)の強さではないか。

 川内原発建設反対連絡協議会(反対連協)は7311月、14団体で結成された。以後、1,000余の労働者・市民の市議会包囲行動(74年)、市長選での勝利(同)、原発敷地の地質問題(ボーリング・サンプルの差し替え)の暴露(75年)、起工式抗議行動(78年)という闘いの歴史をもつ。

 労線統一と連合の電力総連支配をへても、現在も屋内集会には常に100人近くの参加者がある。その実力が、かえって「外」の人々に対するイニシアティブを鈍らせている可能性がある。

これについては、地域ビラまきなどの「実例」をもって、「外」への展開を働きかけていきたい。

 

●内心の意思を対話へ、対話を眼に見える行動へ

こうして内心の意思を「会話」へと解放すること、そして再稼働阻止の眼に見える運動へと展開すること――。再稼働が9月とも言われる状況下、これがここ数カ月の基本的な課題である。

ストップ再稼働!311鹿児島集会実行委員会は、613日の県議会開会に当たり、1,000人規模の抗議行動を予定している。経産省前テントひろば等が呼びかけた東日本決起集会実行委員会は、529日の大衆集会を経てこの行動に参加、翌日には原発ゲート付近の行動を計画している。これら鹿児島~全国の人々の立ち上がりは重要だ。

 しかしそれだけでは足らない。反対連協を中心にした川内市街地や、いちき串木野市など周辺自治体の住民の闘争参加(注3)――。これは避難問題の焦点化と批判の行動により、「枠」が拡大しつつある。さらに「原発が無ければ原発事故はない」という、当たり前の事実を運動に転化する必要があるだろう。

 

●原発直近地域の運動再建――夢見ることと実現すること

 そして私が「夢想」するのは、原発直近の住民の闘い、70年代の運動の再建である。

 もちろん原発直近の、かつて闘いの中心地だった久見崎町寄田地区は、最年少の住民が40代後半という「限界集落」だ。だが、少し離れた高江町では、かつて反対運動を担ったという3人の方々が、熱く闘いの歴史を語ってくれた。40年前の「青年行動隊」の再結集を目指している方にも出会った。出会いと会話の重要性を改めて確認した。そして「夢想」し、行動しないことには具現化はありえない。

 手前勝手かもしれないが、まず川内の闘いにフォーカスしていただくことが重要だと思う。原発直近の地域、薩摩川内市街地と周辺自治体、鹿児島県全域、そして全九州や全国の闘いへと連帯を積み上げる必要があるだろう。軸になるのは、再稼働阻止全国ネットワーク(注4)に結集する、16の原発現地であろう。また全国の人々が「私も『現地』である」と声をあげ、立ち上がることが求められている。

 

●川内原発再稼働阻止にむけ、「川内の家」支援を

 最後に「川内の家」について。

何日か前、「『川内の家』って団体ですか?」と質問された。しばらく迷ったが「イエス」と答えた。訪問者は多く、諸団体がスペースを利用し、また地域情宣への協力者も何人かになった。宿泊者もいる。とはいえその実態は、阻止ネットから派遣された私1人が常駐する事務所に過ぎない。

市役所や駅、地域でのビラまき、さまざまな会議・集会への参加や議会傍聴などで、けっこう多忙。日本列島の西端にある薩摩川内市だが、何か協力していただけそうなことがあれば、ご連絡ください。もちろんカンパも大歓迎。

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(注1)本稿は『人民新聞』(5/25)に掲載された。そこでの表題は、『多数派となった「反対」の声を可視化する』となっている。誤字だけを訂正し、注を追加した

(注2)ガルは加速度の単位。980ガルが1G(地球重力)で、それを超える上下震動があれば人間の体(あるいは固定されてない装置類)が空中に浮くことになる

(注3)薩摩川内市の南に接するいちき串木野市では、現在、避難計画も不完全なままでは原発再稼働は許せない」という趣旨の署名運動が進行中。なぜなら市の一部が原発から5キロ圏に入るからだ。有権者2万人の半分が目標で、いま7千人レベルに達している

(注4)再稼働阻止全国ネットワークについては下記を参照。「川内の家」の週刊ニュースも見られる

 http://saikadososhinet.sakura.ne.jp/ss/

2014年1月23日 (木)

差別の形成は、どう成しとげられたのか―ウェーバーから考える

昨年6月に『「国民運動としての反原発運動」に、“まともな批判”を試みる』(注1)を書いてから、ずっと差別の問題を気にしてきた(注2)。西川長夫の本に、「『国民である/でない』という法的なイデオロギーを基礎におく差別・排外主義に対し、その経済的=物質的基盤におけるイデオロギーの再生産を軽視した」と、あてずっぽうな批判もした。それがずっと私の「宿題」となってきたのである。ここではまず、第1次ロシア革命が勃発した年に書かれた、ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫、注3)を参照する。それは資本主義の、あるいは資本主義を生みだしたイデオロギーを論じているからである。

 

●プロテスタンティズムの「倫理」、そして資本主義の「精神」

ウェーバー説は、プロテスタントのあらゆる教派の中心的教義、「天職」という概念から説きはじめる点で特異である。その概念はルター派に始まる。カルビン派が「予定説」をとり、「救いの確証」を重視するに従い、それはプロテスタント各派に共有されていく(P107)。「予定説」とは誰が救われて天国に行けるかは最初から決まっている、「救いの確証」とは日々の行いによって自分が選ばれているか否かを確証する――ということだ(注4)。懺悔をすれば罪をあがなえる、免罪符を買えば天国に行けるというカトリックと比べると、「悲愴」な教えだ。逆にカトリックの宥和的な教会―信者の関係は、ルターが1517年に「95カ条の提題」で糾弾した腐敗の根源であった。そして「天職」は、カルビン派等においては世俗における「修行」となる。「社会的な労働は、ひたすら『神の栄光を増すため』のものだ」(P166)。「救いの確証」が決定的な意味をもち、被造物神化(偶像崇拝=見栄、虚飾など)の拒否、人間的な対人関係への嫌悪、現世の合理化の努力がそれに伴う。職業の有益さの程度、つまり神によろこばれる程度は以下のように唱えられた。「第1には道徳的規準(禁欲―筆者)、つぎには、生産する財の(社会―筆者)『全体』に対する重要度・・・第3の観点として私経済的『収益性』」。そこで第3点が最重要視される。低い収益性は、「自分に対する召命(神の命令―筆者)・・・に逆らい、神の管理人としてその賜物を受けとり、神の求め給うときに彼のためにそれを用いることを拒む、ということになる」(P310)。「プロテスタンティズムの倫理」とはこのようなものであった。

それとは区別される「資本主義の精神」は、とりあえず「時間は貨幣」、「貨幣は繁殖し子を生む」というフランクリンの言葉で「例示」される(P40)。彼は18世紀の印刷屋、発明家であり、アメリカ独立宣言の起草者だ。悲愴な「倫理」に対し、功利的な「精神」が際立っている。この転換についてウェーバーは以下のように言う。「純粋に宗教的な熱狂がすでに頂上をとおりすぎ、神の国を求める激情が醒めた職業道徳へと解体しはじめ、宗教的根幹が徐々に生命を失って功利的現世主義がこれに代わるようになった」(P353)、と。その要因についてウェーバーは系統的に語ることはしていないが、幾つか示唆を与えている。1つは「長年月の教育の結果」(P67)だ。2つは「近代的経済秩序」(P365)の確立である。特に後者については以下のように述べる。「勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱(禁欲の倫理―筆者)をもう必要としない」(同)、と。このことは「教育」に関連して次のようにも言われている。「今日では資本主義は堅固な基礎ができ上がっているから・・・(労働が絶対的な自己目的であるかのように励む―筆者)労働者の調達は比較的安易だ」(P67)、と。そして3つ目は、科学技術の適用に関連する。ウェーバーは、「17世紀の経験論は禁欲思想にとって『自然における神』を探究する手段だった」(P250)と言う。「現世の『意味』は・・・概念的思索によっては・・・捉ええないけれども、自然における神の法則の経験的把握によってその知識までは到達しうる」と、ベーコンらは考えたのだ。教育―機械―科学。信仰の枠から離れたかに見える社会が、そこでいかに新たなイデオロギーや支配形態を生成させていったのだろうか。

 

●宗教改革の背景となった、階級対立と社会的危機

ところでウェーバーは徹底的に唯物史観を拒否し、ゆえに歴史的にではなく、社会学的に所説を展開している。だがルターの宗教改革は、直接的な歴史的・社会的関連をもった。エンゲルスは『ドイツ農民戦争』(注5)を著し、ルターの宗教改革をこう意味づける。「国民を3大陣営に、すなわちカトリック的または反動的陣営、ルター派の市民的・改良陣営、および革命的陣営に、集結せしめた」(P60)、と。当時の神聖ローマ帝国を特徴づけるのは、大小の貴族や騎士の封建的な領邦分割と、教会が土地の4分の1以上を領有するというローマ・カトリックの「植民地」的(注6)な地位である。ツンフト的な工業の発展、ハンザ同盟のバルト海沿岸通商、金銀の産出、都市の興隆などはあった。とはいえ農業・工業・海上貿易の全面において、イタリア・イギリス・オランダに後れをとっていたとエンゲルスは言う(P41)。15世紀末のインド航路の開拓で地中海から陸路ドイツを経由する東方貿易の利益は失われつつあり、大量な金銀の流通によるインフレは下層民の生活を破壊した。すなわち一定の発展段階とその停滞において、利害を異にする諸階級が産み出され、かつ全階級が社会的・経済的な大再編の時期を迎えていたのである(注7)。そのとき「教会の教義は同時に政治上の公理であったし、聖書の章句はあらゆる法廷において法律としての効力をもっていた」(P62)。革命は、宗教的=政治的な権力としてのカトリックへのイデオロギー闘争、そして「被搾取国民大衆」たる農民の、教会と領主に対する一揆として展開されたのである。農民たちは、横領された共有地の返還などの綱領的要求を「12か条」(『ドイツ農民戦争』所収)にまとめている。彼らは152425年にドイツの3分の2を戦場としたが、それはルターの宗教改革と明らかに連動していた。

17世紀イギリスのピューリタン革命も、国家権力と宗教的教義をめぐって闘われた。ただしピューリタンは王党派に対抗する議会派のなかでは力をもったが、教団として確立されてはいなかった。それは1649年に国王を処刑し共和制をうちたてはしたが、国教会のなかでの倫理的な改革運動として存在しただけである。その実質は説教のなかにあった。ウェーバーは牧師バクスターの『キリスト教指針』(信仰と世俗の生活を導く11答式の教本)を参照している。そしてバクスターが対象としているのは、農工の独立生産者だ。梅津純一の『近代経済人の宗教的根源』(みすず書房)から11答の例を引用しよう(P164~)。「問い:市場において私の商品の真実の価値以上に求めてもよいでしょうか」。「問い:ある人が望んでいる有利な取引を、その人より先に私が獲得できるように努めてよいでしょうか」。これらへの答えは「等価交換」と合法的な「競争」であり、それにより「神のために裕福になる」ことを勧める。一方、当時は借地農を生存条件以下の生活に追い込む「搾出地代」が横行していたが、彼の答えは「慈愛」でしかない(P179、注8)。こうしてクロムエルの軍隊を支えた借地農層はプロレタリア化し、また革命を支えた独立生産者も17世紀を通じて資本家とプロレタリアに分化する。ロックの『統治2論』(1689年刊)は、絶対王政にかわる立憲君主制をうちたてた名誉革命を正当化し、フランス人権宣言に多大な影響を与えた。それは17世紀を通じた内乱と諸階級の分裂を総括し、権力分立のブルジョア国家の確立により、諸階級の対立を「国民」的な統合によって回収しようとしたのではないか。

 

●差別を生み固定化する、商品関係と労働者の物象化

それでは差別の社会的・経済的な根拠は何だろうか。ウェーバーは「神に選ばれた者」をフォーカスしたが、まず「選民」の存在それ自体が社会を2つに分割するものだった。彼はバクスターを引用し、その「身分」/「貴族主義」(P286/207)の対極にあるものについて語る。「日雇労働者(は―筆者)・・・好ましからぬ中間状態だ。『天職である職業をもたない者』の生活には・・・世俗的禁欲が要求する組織的・方法的な性格がまさしく欠けている」(P309)、と。「職業の有益さの程度」に関する価値判断がそこにある。17世紀前半のイギリスでは政府による救貧や失業者の職業紹介の制度があった。だが貧民の収容施設は「懲治院」という名のとおり、懲罰を与えて労働意欲をかきたてると称し、また治安を維持するものであった(注9)。ウェーバーの言う「長年月の教育」の実態の1つがこれであり、またこの支配様式自体、プロレタリアに対する差別を社会的に増幅・固定化した。

2つめの「機械」は、不変資本として資本の1面をなす。それは労働者の「知識と熟練の蓄積」を吸い取り、道具と動力を結合させて、可変資本としての労働力に対向する。そのとき労働者は、「たんにこの自動装置の意識ある手足として規定されているにすぎない」(マルクス『経済学批判要綱』Ⅲ、P644)。労働者は「禁欲」といった手続きをふむ必要は、もはやない。なぜなら「労働が絶対的な自己目的であるかのように励む」ことは、資本の意志を体現した機械が強制してくれるから。このプロレタリアの従属は、知識も熟練も「禁欲」の意志も持たない者として差別の根源となり、また資本の意志の内面化を強制する力としても働いたであろう。3つめの科学への「盲信」は機械への隷属に関係するが、ここでは触れない。

重要なのは資本の意志の内面化の問題である。ウェーバーが神と信徒との関係として説いたことは、容易に資本に対する資本家と労働者、そして価値と使用価値の関係に置き換え可能であることに気づく。「神の栄光を増すため」の労働はひたすら資本を蓄積する行為であり、「職業の有益さの程度」は資本蓄積の効率を論じていた。マルクスは価値論で、簡単な価値形態として「20エレルの亜麻布は1枚の上着に値する」という等式から始めている(『資本論』1、河出書房、P46)。亜麻布(の持ち主)は上着(の持ち主)に交換をもちかけ、上着によってその価値を計られて、等価であれば売買が成立する。その関係は貨幣形態にまで展開され、上着に代わった2オンスの金により、すべての使用価値が計られるようになる。この金が神だ。資本の意志の内面化とは、根本的にはこの商品交換関係―価値関係の受容である。労働力はくりかえし売買される。資本家の採用基準は「禁欲」の倫理、その結果は悪くすれば失業や窮乏だ。この繰り返しと結果は内面的には自己嫌悪、社会的には差別を産むだろう。

加えてマルクスは「物心崇拝」について論じている(同上、P67、注10)。「商品形態をとるや否や生ずる労働生産物の謎的性格」を論じ、「価値関係は・・・人々そのものの一定の社会関係に他ならぬ」としたうえで、その社会関係が「物と物との関係という幻影的形態をとる」、というのだ。労働者も、労働力という使用価値を担った「物」として、物象として資本家や社会との間で関係をとりむすぶ。こうして差別とは資本主義的な意味での価値判断に根拠をもち、「物心崇拝」のメカニズムによって社会的に固定される。プロレタリアは、労働力という「商品」の所有者すなわち権利主体として、いずれ国家の枠内に「国民」として統合されていくだろう。だが国民国家がそれ自体、差別的なものであることは、すでに論じたとおりである。

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(注1http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-cff8.html

(注2)西川長夫:http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e3c9.html 他にジョン・ダワーやハンナ・アーレントに関し書いた

(注31905年著。引用では適宜、ドイツ語に忠実に訳された人名等を、教科書的な表記に置き換える

(注4)「予定説」がはじめて十分に展開されたのは1543年の『キリスト教要綱』の第3版、それが中心的な位置を占めるにいたったのは1643年、イギリスのピューリタン革命のさなかだった(ウェーバー、P152

(注5)岩波文庫。1848年のドイツ革命の「不発」をうけて50年に書かれた。「(16世紀前半―筆者)当時のドイツの政治制度、それに対する反抗、その時代の政治的ならびに宗教的理論などを・・・発展段階の原因としてではなくかえって結果として論証すること」が目的だと、エンゲルスは「序」で述べている

(注6)「イギリス、フランス、スペインにおいては教会はローマとの関係を絶って国民的性格を帯びつつあった。そしてただドイツだけは例外であって教皇の貪欲な欲望の対象となっていた」(エンゲルス、P69

(注7)全欧州が激動していた。14世紀のペスト流行により人口は半減、労働力不足で15世紀中ごろをピークに実質賃金は倍増した。ところが16世紀初頭に新大陸から銀が大量に流入、穀物価格が34倍も高騰するインフレ(価格革命)で実質賃金率は半減、さらに17世紀前半(60%減)まで低下し続けた。ペスト流行以前のレベルまで人口と実質賃金が戻るのは18世紀中ごろである

(注8)梅津の「搾出地代」論文 http://www.seigakuin-univ.ac.jp/scr/liv/liv_ronso/contents/doc5/01.pdf

(注91834年の「新救貧法」段階についてだが、「貧民作業所」の実態に触れた。失業者は1日じゅう歩き続ける「懲罰」を受けた http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/500-a02c.html

(注10)物神崇拝に関し以下を参照 http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/occupy-9790.html

2013年11月29日 (金)

原子力防災訓練における「保護」、「動員」、そして「服従」

この秋、各地で原子力防災訓練が行われた。これは原発を抱える各県でほぼ恒例の行事だが、今年は特別な意味をもった。というのは原発再稼働の動きのなかで、原子力規制委員会が規制基準の達成とともに、仮に事故が起こったとしても住民が安全に避難できる計画を作成・検証すること――というガイドラインを設けたからだ。とすれば原子力防災訓練が矛盾を露呈し、破綻するようなら原発の再稼働はありえない。もちろんこれは、規制委が再稼働をさせたくないということでは全くない。規制委は、基準や審査の厳しさを装っている。だが本音は、「安全な原発」と「危ない原発」を切り分け、「安全な原発」の再稼働を進めることである。活断層の直上にある原発や、地震・津波などの対策が箸にも棒にもかからない原発を除き、何段階かに分けて、なし崩しに原発の稼働を認めていくつもりだ。規制委は1011日から2日間、福島原発事故いらい初めてとなる国主催の原子力防災訓練を新たな装いで鹿児島県・川内原発で実施し、住民の「安全」を演出した(注1)。

 

●安倍首相の決断と、自衛隊だけがめだつ訓練

はっきりしていることは、原発がなければ原子力防災訓練も必要ない、ということである。ここで2つの力が対立する。1つは原発の存在と稼働を前提に、不安を持つ自治体や住民を防災訓練に動員し、組織し、「安心」感を植え付けようとする原子力マフィアの力だ。2つ目は、原子力防災訓練そのものが原発のある社会の矛盾を鋭く露呈させていると批判する、反/脱原発運動の批判の力だ。従って、訓練を通じた住民組織化と、訓練そのものをどう批判するかが重要になる。そこで再稼働阻止全国ネットワークの取り組みとして、薩摩川内市を中心に行われた、2年ぶりとなる国の訓練の監視行動をおこなった。

規制委員会のうたい文句は以下のようだ。①シナリオなしの「実時間実働訓練」、②国・自治体・電力会社が連携した訓練、③放射性物質の放出後の訓練も実施――。従来の訓練は、①予定調和的なシナリオと「発話集」にもとづく机上訓練で、②国・自治体・電力会社がバラバラに実施し、③放射能拡散を想定しない訓練であった。それと比べると、大いに「進歩」した方針のように見える。では実態はどうだったのか。まず、シナリオは明らかに存在した。1110時に震度6の地震が起こる想定だが、その時点で鹿児島規制事務所の大会議室のTV会議システムはすでにスタンバイ、その3分後には「原子力事故警戒本部」が立ち上がるのである。「サプライズ」は、原発敷地内で火災と従業員の怪我が、従来の訓練に付け加えられたにすぎない。2つ目の連携した訓練という点は、ほぼ国・自治体・電力会社などが、同じTV会議システムでつながっているということに過ぎない。諸機関から100人近くが集合しているのだが、たんたんと情報伝達が行われるだけで、何か協議をしたり指示を下すわけではない。1222分に全交流電源喪失に至り、現地警戒本部が対策本部に改組された。それにともない「PAZ圏内の要援護者への避難要請」が行われたのが初日の唯一のジャッジで、そのご本部の訓練はいったん中断する。翌12日、事故発生から想定上4時間半たったタイミングで安倍首相がTV会議に登場、放射性物質の放出増大を告げて「原子力緊急事態」を宣言、内閣府に原子力災害対策本部を設置した。なんのことはない、「決める」「実行する」安倍首相というプロパガンダだ。ここでもSPEEDIデータの開示はなかった。

目立ったのは自衛隊である。放射能拡散を想定した訓練ということで、PAZ圏内の2地区の住民100人を乗せたバス2台が、原発の東方45Kmの姶良市の体育館に到着する。1次スクリーニングで汚染が確認されると、住民みずからがウエットティッシューでその部位をぬぐうのが除染だという。2次スクリーニングで効果が認められないと、待ち受けるのは大動員された自衛隊の対化学・生物・核兵器戦の部隊、特殊武器防護隊の除染テントだ。それに限らず、陸自の大型ヘリが住民避難に登場、海上保安庁の艦船も離島住民の移送を行った。

 

94,560人という規模がもつ、住民の避難中の被曝

この例からもわかる通り、PAZ5Km)圏内―UPZ30Km)圏内を問わず、実際に避難した住民は極めて少ない。30㎞圏外まで逃げた住民はPAZ圏内の別の地区をあわせて150名程度。同じく要援護者の避難も計画の半数の約575名と報告されているが、大半は動員しやすい児童・生徒で、小中学校ではさらに1つの学年だけに絞ったようだ。救急車で運ばれた寝たきりのはずの要援護者も、実際は自分で歩ける40代の女性。健常者の避難は、上記の150名以外は全く見かけない。その他の住民は屋内退避するものと位置付けられたのである。この避難者の少なさは、現実の原発事故に際しては単なる手抜き以上の致命的な意味をもつ。なぜなら川内原発のUPZ圏内の人口は94,560人だが、それをすべて50人乗りのバスで避難させるとすれば1,891台を要する。福島原発の際と同様、大渋滞が必至だ。ところが自動車の放射能防護係数は「0」で、渋滞の期間中、外部環境と同じ線量を住民は浴び続けることになる。川内市内では大半の木造家屋は係数「10」で、屋内退避の効果は10%減にすぎない(注2)。すなわち訓練は、まず避難を第一義とし、94,560人という「規模」の問題を解決するのでない限り、まったく無意味なのである。

その一方で自衛隊や海上保安庁が前面化し、一種の「スペクタクル」を演じてみせた。装甲車や軍用トラック、多数の迷彩テント、除染のゴールキーパーになる特殊武器防護隊。このうち装甲車はα、β、γ線までの防護能力をもち、特殊武器防護隊は除染の能力をもつ(注3)。だが福島では、地上部隊は「命令により撤退する」と言いのこして引き揚げ、ヘリが原発に水をかけるデモを行っただけだった。川内でも結局、住民の放射線防護や避難がまったくインチキである一方、自衛隊などの組織力と装備、安倍の自信ありげな演技で、住民の「安心」感を買い取ろうという作戦が読み取れる。ローマ皇帝の貧民に対するパンとサーカスの政策、コロッセウムにおけるスペクタクルの演出と同じだ。なぜなら原子力マフィアは、福島原発事故の際に起こったような10万人単位の避難は実際には整斉とは行いえないと、はなから考えているからだ。

 

●「保護」の体裁による、住民の組織化と「服従」の強制

スペクタクルとプロパガンダによる「安心」感の買い取り、インチキな「保護」を通した「服従」の強制――。このような原子力防災訓練の性格は、原発の直近で暮らす住民や、長らく原発の建設と運転に反対してきた現地の団体にとっては今更のことかもしれない。だとしたら原発現地において、改めて原子力防災訓練に反対することは無意味だろうか。福島原発事故がもたらした甚大な厄災は、大衆的な反/脱原発の意識を産み出す一方、一種の運動の「抽象性」をもたらしたように思える。それは自然・科学・技術を超越する巨大システム、原発の性格に規定されている。だからといって、生命原理に反する原発といった批判や、その対極にある「新しいエネルギーによる成長戦略」の提案だけで済ますわけにはいかない。

1015日から16日にかけ、「福島で保護と服従」という魅力的なタイトルのシンポジュームを日仏会館が主催した(注4)。テーマが「保護と科学者服従」と「保護と市民服従」に分節化され、科学者や市民の「服従」がフォーカスされがちになった。結果としていくぶん、国家の「保護」があまり問題にされず、それによる「服従」の買い取りという、支配の構造にたどりつかない面があったかもしれない。原子力防災訓練の問題は、まさにここにある。原子力マフィアは情報を操作し、公開しない。恣意的な権力支配を担保するためだ。また地震・津波・火山の噴火などの自然の力は制御できない。それらは人々を不安にさせ、無力な状態におき、パニックまたは思考停止を強制する。その状態に対し、自衛隊など国家権力の圧倒的な組織力と物理力を現前させ、「保護」されていることを認識させる。また権力のレールにのって動員され、避難訓練や防護活動など擬似的な運動を行うことによって、体で「安全」を実感することを強いられるのだ。「服従」は、情報やイデオロギーの面だけでなく、また権力の巨大な力を示すだけでなく、まさに組織的に動員されて運動を行うことによって住民に血肉化されるのである。もちろん先述のとおり、住民はうさん臭さを感じてはいる。しかし多くの住民が組織され、運動を強いられることによって、それを公然と表明することが難しくなっていくのである。

現実に原発をなくしていくためには、「人」の観点に立つ必要があるだろう。被害者がいれば、その対極に加害者がいる。人が止めることができた原発は、何度でも止めることができる。人が作ったものは、人が無くすことができる――。そして原子力防災訓練については、一方に「保護」を通した服従を買い取ろうとする原子力マフィアがおり、他方に疑問を持ちながらもその動員に応じ、組織化されていく住民がいる。そこに「介入」することが重要だ。そして原発現地とは、最も現実的な意味で原発の存廃を争う「場所」なのである。

 

●原発50年の歴史を巻きもどす、人と人のつながりの再建

東京にいる私たちは、原発の安全性なるものを検証し、再稼働を認めていこうとする規制委員会に抗議行動を続けていく。そのなかで、原子力防災訓練のインチキさを具体的に暴露し、住民の安全が少しも保障されていないことを批判する。それによって、規制委が唱える原発再稼働のガイドラインの一方を崩したい。防災訓練は事故の蓋然性を前提にしており、それは原発があることによるという根本矛盾を突かねばならない。

鹿児島の訓練に参加して、護憲平和フォーラムの方々の100人規模の取り組みが目についた。監視の他、30人ほどの方が住民の聞き取り調査に携わっていた。住民アンケートの結果を含め、いずれ報告集が出るそうだ。一方、伊方原発の現地では、70人ほどで原発周辺の2万を超えるお宅に原発反対のビラ入れを行い、話し込んだという。再稼働の動きが切迫する状況下、そうであるからこそなお、このような取り組みが重要なのではないだろうか。再稼働阻止のために必要なのは、原子力マフィアと現地住民の間に防災訓練など具体的な課題を通して「介入」すること、彼らの組織化の力に対抗する私たちの人と人とのつながりを再構築することである。再稼働を阻止し、原発50年の歴史を巻き戻すためには、この介入とつながりの再構築が重要だと思う。

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(注1)この文章は、たんぽぽ舎のメルマガに連載されたもの。そのさい字数制限により一部省略した

(注2)アメリカ環境保護庁(EPA)の「原子力災害時の防護対策指針」(改訂ドラフト、13415日)では場合により屋内退避を選択するとしているが、堅牢なビル内(防護係数=40)や地下室を指定している。

  「指針」:http://www.jaea.go.jp/04/shien/research/EP001.html

  「係数」:http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail/php?Title_Key=09-03-03-02 (低減係数表示)

(注3)泊原発の原子力防災訓練(108日)では、3台の装甲車が養護老人ホームからの避難者をのせ、ヘリ移送につないだ。だが避難者は老人ではなく、その施設の職員だった

(注4)「福島で保護と服従」で検索すると、2日間のシンポジュームの映像を見ることができる

2013年10月 2日 (水)

「占拠の思想」―経産省前テントひろばの3年目を闘うために

経産省前テントひろばは11911日、経産省の敷地を取り囲む「人間の鎖」行動の最中に立ち上げられた。あっという間に1張のテントが建ち、そのご福島の女たちの座り込み行動のために「第2テント」ができた。今では3張りのテントが経産省の敷地の一角、約90平方メートルを占拠している。これに対し国=経産省は3月以降、撤去を求める仮処分の攻撃と裁判をおこし、これまで523日から3回の口頭弁論が開かれている。毎回、数百名の人々が参加し、大法廷の使用も獲得、攻勢的な裁判闘争を展開している。63日には、300人の参加で「テント応援団」も結成された。

この911日、3年目も闘いぬくための抗議行動が経産省正門前で闘われた。「再稼働反対」「政府は汚染水対策に集中せよ」という叫びが霞が関に響きわたり、700を超える人々の手で、経産省を包囲するヒューマンチェーンを成功させたのである。その翌日の第3回口頭弁論には、260名の人々が傍聴券を求めて東京地裁前に並んだ。3年目も闘いぬくために、いま改めてテントひろばの意味するものとその役割、それを防衛しぬく「思想」を考えてみたい(注1)。

 

●たかだか140年の歴史しかない、「国有地」という概念

経産省の退ちのき要求は、もちろんその所有権に基づいている。その根拠をみてみよう。江戸幕府の開設は1603年だが、江戸城の城下町が作られた土地は茅が生い茂る湿地帯で、おそらく「無主」の入会地だった。いまテントひろばが建つ経産省別館の土地は、江戸時代、信州松代・真田藩の上屋敷となった(注2)。大名屋敷は、大名個人が将軍からその領地を拝領したものだったが、明治政府はそれを接収する。経産省が主張する「国有地」とは、さかのぼれば天皇の権威と薩長の武力を背景に、大名とはいえ個人の所有地を収奪したものだったのである。しかもこの時点では、土地所有権や国有地という概念は確立していない。土地所有権の法的な確立は明治維新5年後の1872年(太政官布告)、国の土地所有権=官有地を認めたのはその翌年であった。こうしてみると所有という概念は、歴史的・相対的に考える必要があるということが判る。

「国有地」という概念は、ブルジョア革命を通じ、近代国家が成立するにともなって生成した。王や将軍の領地はあっても、国家が所有権をもつことはなかったのだ。1789年の「フランス人権宣言」は、権利を持つ主体(法人)として「人」なるものを発明し、またそれを束ねる1個の法人として国家を定義した(注3)。法人として国家は初めて所有権を行使し、「国有地」を持つことができたのである。それ以前はどうだったのか。王や将軍の領地はあったが、それは所有権概念においては領有(自分のものと主張する行為)に属する。「主張する行為」とは、植民地獲得競争と同じく「先占権」の宣言であり、軍事力などによって担保される必要があった。一方、それと重なって農民たちの共有地があった。ポラニーはヨーロッパ封建社会の共同体的農地制度である「開放耕地」を紹介している。「村落の耕地はふつう三つの耕区に区分され(三圃制度)、農民保有地は各耕区に地条として広く分散・混在しており、各地条間には垣根がなく解放されていた」(『大転換』P56)、と。これは今日の法的概念からすれば共有の形態であり、武力に支えられた領有のもとで、献納によって許された占有(事実上の支配)だったといえるだろう(注4)。

だがこの領有と共有―占有の形態は、イギリスの場合、15世紀末から16世紀前半の絶対王権による封建的家臣団の解散と、17世紀後半の教会領の収奪などにより衰退する。そして近代的な私的所有権概念に再編されていく。日本の場合では今日、法的に狭く定義された占有権のほか、忍草入会組合による北富士演習場内の入会―採草権や、成田空港における一坪共有地運動が目立つくらいだ。

 

●私たちの占有権と、新しい世界を展望する「個人的所有」

もちろんテントひろばは、経産省の提訴段階で1年半の占有の実績を有していたからこそ、裁判で対抗できている。またその共有の実態を、数百の「関係者」の訴訟参加の要求によっても表現している。それに加え私たちは、どのような「占拠の思想」を新たに持つことができるだろうか。

大谷禎之助は訳書『マルクス自身の手による資本論入門』(注5)で、『資本論』124章の「個人的所有」という概念をクローズアップしている。「『労働する人びとの自由な個性の発展のための条件』である彼らの所有すなわち『個人的所有』は、資本主義的私的所有によって廃棄されましたが、こんどはこの資本主義的私的所有を廃棄することによって成立するアソシエーションのもとで、アソシエートした諸個人による所有という形態で『個人的所有がふたたび作り出される』のです」(P163)――と。個人的所有とは、私的所有とは違い、権利概念に基づく所有権(使用・収益・処分権)の行使とも違う。アソシエーションについても、「1963年にスターリンがその成立を宣言し(た)・・・ソ連の『社会主義』」とは違う、と大谷は言う(P204)。

一方、個人的所有それ自身とアソシエートした諸個人による所有とを明確に区別していない――と、大谷を批判するBlog記事もある(注6)。この筆者は、社会的所有は生産手段に適用され、個人的所有は消費手段に関わるというエンゲルスの「俗論」を意識している(注7)。そして個人的所有を原基的・一般的に、以下のように定義する。「主体(労働者)が対象(生産手段)に対して、自分の目的と意志を貫くような仕方でかかわること」、と(カッコ内は筆者の補足)。今日の資本主義社会においては、労働の目的と意志は資本に収奪され、資本家や職制による指揮、あるいは科学と技術を集約した機械への労働者の従属として現れている。それに対し、新しい世界に関して筆者は言う。社会的所有の側面では、労働者たちが全社会的生産手段に対し、アソシエートした労働者の共有の目的と意志を貫く様態で関わる。個人的所有の側面では、個々の労働者はそこで各個人の目的と意志を貫く。そこで個々の労働者の目的と意志、その実行のあり方がどれだけ自由な広がりと深さを持つかが、社会的所有の確立の度合いを規定する――と。

この個人的所有の実例として、マルクスは、広い地域に家族単位で分散して農業を営む古代ゲルマン人の共同体を紹介している。「共同体は、連合体としてではなく連合として現れ、統一体としてではなくて、土地所有者からなる自立的主体の統一として現れる。だから共同体は・・・国家、国家組織としては事実上存在しない」(注8)、と。それは常設役員をもつ「連合体」ではなく自立的主体の「連合」であり、共同体の実存は随時の集会に拠っていた。当然、国家のような中央集権的な組織ともかけはなれている。これはテントひろばの主体や運営と似ているかもしれない。原発のない社会を「生産物」とすれば、私たちはテントひろばという「生産手段」に集い、働きかけ、かかわっている。そこにおける社会的所有―個人的所有という概念は、主権国家と背中合わせにされた権利を持つ主体としての個人、または所有権というブルジョア的概念に対抗する。それは「占拠の思想」を豊かにしてくれる可能性をもっているかもしれない。

 

●占拠―それは原発のない社会をめざす思想と運動

11年頭に勃発したチュニジアの革命はエジプトに波及した。タハリール広場は大衆的な結集と討論の場となり、また大統領府などに出撃する闘いの拠点ともなった。実際にムバラク政権を打倒した革命のインパクトは、スペインの「515運動」やNYのウォール街占拠運動に展開、1015日には90ヶ国以上、1,000を超える都市や街々で行動が展開されたという。11911日のテントひろば建設は、もちろん福島原発事故を契機にしたものだが、世界的なOccupy の波動のなかにあったことは間違いない。しかしこの7月、エジプトの民衆は自らが民主的に選んだはずのムルシ政権を打倒、革命は軍事政権の再興へと暗転した。「非民主的な政権は何度でも引きずりおろす」という若者たちの永続革命的な意志は、エジプト軍を支配するアメリカの覇権と、エジプト経済を締め上げる世界資本主義の力で巧妙に利用された(注9)。「占拠」の思想と行動は、いま1つの試練に立たされていると思える。

例えばウォール街占拠運動を振り返ってみると、巨大な解放感と世界的な連帯意識を醸し出した反面、政治的な討論の点では貧弱だったようだ。「占拠」という言葉へのアメリカ先住民の異議、少数民族や女性への差別の問題などが提起されていた。だがジェネラル・アッセンブリィーは数度しか開かれず、問題提起の内容よりは討論のプロセスが重視され、事実上、議論は深まらなかったようだ(注10)。参加者はスポークと呼ばれる機能グループに分けられ、公園での生活運営に多くの力が割かれたが、それは政治的討論を抑え込む意味をもったともいう。このようなあり方は占拠運動の活力を殺し、早期の排除を許すことにつながったかもしれない。

テントひろばの運動は今日(102日)の段階で752日目、もちろん活力にあふれている。それは原発事故が収束にほど遠く、日々経産省や右翼との緊張関係のなかにあり、福島や各地の闘いと結びついていることによっている。911日の抗議行動にも、福島や再稼働にあらがう原発現地の方々が駆けつけてくれた。その中でさらに私たちは、さまざまに巻き起こる討論を各ステップにおける合意として積み上げていく必要があるだろう。まさに「個人的所有」としてテントひろばに関わるスタンスであり、所有権を盾にした経産省に対抗し、共有―占有を維持する「占拠の思想」を運動として展開することである。テントひろばは「討論の場」だ。しかし在日の人々などを排除する「国民的」討論の場ではない(注3)。

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(注1)こんなことを考え始めたのは、6月のある夜、某大学のゼミ生たちから「経産省前テントひろばの活動が反原発運動に及ぼす影響」というインタビュー調査を受けたからだ

(注2http://edoshiseki.com/daimyo.html 参照

(注3)このことの階級的な意味は、http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e3c9.html

および http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-c682 参照

(注4)占有権は「民法」第22章、共有については同第32節を参照

(注5)大月書店。ドイツ生まれの扇動家モストが書いた『資本論』第1巻の入門書、『資本と労働』にマルクスが改訂をくわえて第2版としたもの。「商品と貨幣」と「労賃」の部分はほぼ全面改訂された

(注6http://ebi3desu.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-98bd.html 「個人的所有」論としての『資本論』」以降、Blog筆者(氏名不詳)の数年にわたる数10の「研究ノート」的な論考がある

(注7)『反デューリング論』岩波文庫、上巻P220

(注8)『資本主義的生産に先行する諸形態』国民文庫、P22

(注9http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e355.html 参照

(注10)政治的発言を討論プロセスから外れていると抑止する、「プロセス」という指信号もあったらしい

2013年7月 8日 (月)

「タハリール広場」の転換―軍隊と新自由主義に屈したエジプトの革命

エジプトのムルシ政権が、軍と民衆の手で打倒された。ムルシの就任1年後の630日に始まった巨万のデモは、瞬く間にエジプト各地に広がった。それを背景に軍は日本時間で4日の0時までの「事態の打開」を要求、辞任に応じなかった大統領に対しクーデターを敢行したのである。この「軍と民衆」という皮肉な組み合わせは、2011年以来のエジプトの革命に、またタハリール広場に始まったグローバルなOccupyの運動に、大きな課題を投げかけている。

 

●ムルシ政権を絞め殺したIMFと、7月4日のクーデター

11年にタハリール広場に登場した「46日運動」の若者たちは、ムバラク政権打倒後に軍隊とイスラム勢力の力が強まるなか、「反民衆的な政権は何度でも引きずりおろす」というスタンスをとった。私は彼らの闘いを、「永続革命のプロセスが始まったという意味で、これは革命だった」と評価した(注1)。彼らは今回、その言葉通りのことを行ったのである。酒井啓子が、630日の100万人集会までに、人口の4分の1にのぼる2,200万人の署名を集めた「Rebel(反乱せよ)キャンペーン」を紹介している。その趣意書(注2)で彼らは、治安の未回復、失業、援助だのみ、正義の欠如、民衆と国家の尊厳の消滅、経済破綻などの点でムルシを糾弾している。実際、失業率は11年段階の12.06%からジリジリと上昇して13年は13.55%となり、政府・公共機関へのムスリム同胞団支持者の大量登用が批判をあびていた。このような「反民衆的」な政権は、2年目の在任さえ許せなかったのかもしれない。

だが経済の破綻は、ただムルシの「無能」にのみ帰すことはできないだろう。例えばインフレは、11年の11%台から13年の8%程度へと、むしろ沈静化に向かっていた(注3)。

私は以前の文章で、エジプト経済をとりまく国際環境を紹介した(注4)。①79年にイスラエルと平和条約を結んでから経済的従属が始まった。②85年からIMFの支援を受け入れ、国営企業売却・100万人の解雇・貧農の土地取り上げをおこなった。③10年時点で300億ドルの対外債務があるが、6年間で240億ドルを返済しても元金は少しも減っていない――といったことである。アメリカ―イスラエル―エジプトの枢軸で中東の「対テロ」戦争の布陣をしく一方、エジプトはイスラエルへの天然ガス輸出と欧米諸国との「加工貿易」にたよることになった。典型的な植民地主義的・金融的な支配の貫徹である。そして今回、ムバラク政権崩壊からの2年間で外貨準備高が360億ドルから130億ドルに落ち込んだが、この230億ドルの差額は、よく言われる観光収入の減少だけでは説明できない。なぜならそれは、10年比で12年は37億ドル減でしかないからだ。投下資本の引き上げや、貿易取引の圧縮があったことが容易に想像できる。結果、貿易決済が滞った。そこでIMFはエジプト住民の困窮を「質」にとるかたちで48億ドルの融資をしぶり、ムルシ政権を揺さぶったのだ(注5)。これは明らかに、帝国主義諸国によるムルシ政権の、そして本質的にはエジプトの革命の、経済的・金融的な「絞殺」と言わねばならない。

 

●展開されなかった「国家の独立」の要求と、ねじれた「革命」の構造

112月の同じ文章のなかで私は、エジプト軍との闘いの重要性をこう指摘した。①軍の戦略的な「中立」に注意すべき、②軍は国家権力の中枢かつアメリカの「傭兵」である、③軍が健在な限り、仮に民主主義が確立されても(支配階級にとって)「安価」「安定」の政権ができるだけ、④(いずれ)また強権政治と利権の構造が再生産される、⑤従って闘いのなかでどれだけ兵士を獲得できるかが重要なカギ――と。エジプト軍は44万人というアフリカ随一の兵力と40億ドルの軍事予算をもち、歴代の大統領を出してきた政治勢力だ。また「エジプト最大の企業体」の資本家であり、国営企業や地方自治体などへの天下りなどによって支配の網の目を広げている。この国家の暴力装置にして「社会のなかの社会」である軍に、手をふれずして民主主義と生活の安定が保証されるはずもなかった。ところがこの間、軍に対する有効な「介入」が行われた形跡はない(注6)。そして実際、1年余の「中立」のあとで軍隊はムルシ政権を打倒し、臨時政府を立ち上げたのである。

1つ疑問がある。さきほど「反乱せよキャンペーン」が主張した、ムルシを拒否する理由を紹介した。その最後の理由は、「なぜならエジプトがまだアメリカの足跡をたどっているから」であった。諸項目のあとのコメントを見ると、ムルシが革命の目的を何ひとつ達成できなかったと述べているのだが、その目的の1つに「国家の独立」が挙げられている。すなわちアメリカへの従属が問題とされているのである。そして従属というのなら、なぜアメリカ・イスラエルの資本による労働者の搾取や資源の収奪、IMFを中心とした世界資本主義によるエジプトの経済的・金融的「絞殺」に目が向かなかったのだろうか。また、アメリカの軍事援助づけになっているエジプト軍への働きかけや、アメリカ―イスラエル―エジプトの「対テロ」戦争同盟をなぜ課題・問題にしえなかったのだろうか。

この問いに答えるためには、今回のムルシ政権打倒劇の両方の主役のねじれた関係を見る必要がある。一方は貧困層とイスラムとの結びつきを代表する。他方はリベラル中間層とキリスト教徒と旧体制派の連合であり、軍の隠然たる支持のもとムルシ政権打倒の1点で結束していた。11年の革命と比べると、タハリール広場の構成はムスリム同胞団と旧体制派が入れ替わり、かつムバラクの軍事独裁政権がムルシ政権に入れ替わっている。軍は当然、タハリール広場の側に立った。そこでシングル・イッシューの革命であることは変わらない。前回は相手が軍事独裁政権であることにより、自然発生的に世界資本主義と「対テロ戦争」枢軸に対抗する性格を帯びた。だが今回の構造のもと、政府の転覆のみをめざす運動は資本主義への批判や国際的な視野を失い、また国家の暴力装置である軍隊への警戒感を忘れたのである。当然、革命の「成果」は軍の手に落ち、「政府が変わっても(旧体制と)何も変わらない」という結果になろうとしている。そこでムスリム同胞団を支持する貧農や下層労働者と、都市の若者たちとは決定的に分裂した。

 

●世界のOccupy運動に、エジプトの「革命」はどう跳ねかえるのか

いずれ実質的な軍管理のもとで大統領選が行われるだろうが、ムスリム同胞団は弾圧にさらされ排除されるだろう。それはおよそエジプト全住民を代表せず、民主主義の名に値しない。次の大統領候補としてエルバラダイ(元IAEA事務局長)が取りざたされている。彼は11年の革命時にアメリカから推されて帰国した人物だが、最初に発した言葉は「さっそく国軍と連絡を取りたい」であった。「民主の顔をしたムバラク政権」が再建され、経済はインフレと失業のなかで革命が勃発したムバラクの時代にもどるだけだろう。

エジプトの人々の課題は多い。まず広場の政治―占拠の闘い、人々を大きく結集することを意図した対政府のシングル・イッシューの運動のあり方の問題だ。もちろんタハリールのような「広場」を占拠し、そこに行けば大衆的な討論があり、そこから闘いに出撃する拠点を形成することの意味は少しも変わらない。ただ、そこで何を討論し、どのような大衆的な目的意識を形成するかが問題だ。先ほど世界資本主義または新たな形態での植民地主義への批判、「対テロ戦争」枢軸への対抗の必要性を述べた。それはエジプトの革命を絞め殺そうとする力との闘いであるとともに、ムスリム同胞団の支持者を構成する貧農や下層労働者との連帯を再建するためにも必要なことである。なぜならイスラム教の再興、イスラム「過激派」の発生は、植民地主義と「対テロ」という名の侵略戦争に根を持っている。下層の人々の階級的な団結の代わりに、その転倒された形で宗教的な団結が形成されているのである。ムルシの宗派的な政治を批判するのなら、反資本主義―反「対テロ」戦争の闘いの共有が並行して必要であろう。そして、政府転覆のシングル・イッシューに代えて、国家権力に対する闘いの視野を開くことが課題だ。軍隊は11年には「中立」を装い、13年には「広場占拠」の政治と運動を盗み取って軍事政権を再興しようとしている。実際にそうなるだろう。また11年の革命の緊迫した状況のもと、軍最高評議会は「イスラエルとの平和条約と国際資本の権益を守る」むね声明した。まさに「軍は国家なり」と声明したに等しい。それと闘い、兵士を獲得し、国家権力機構の打倒をめざさない限り、エジプトの人々の運動は革命と反革命の間を揺れ動くことになりかねない。

中東の革命は、フランスのマリ侵略戦争、シリアの内戦、エジプトの反革命で一回りしたかもしれない。エジプトの人々に牽引された世界のOccupyの闘いは、いま顕在的に続いているかどうかは別にして、今回のエジプトの例に学ぶ必要があるだろう。問われているのは「広場の政治」の質と目標だ。それは私たちにとっては資本と国家への対決、それが醸し出すイデオロギーの批判である(注7)。私はいまでも、エジプトの若者たちの「反民衆的な政権は何度でも引きずりおろす」という気概を支持する。彼らはまた決起するだろう。中東革命の教訓は、世界で、同時に、どのような質の闘いが展開できるかがカギだということである。

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(注1http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/occupy-wall-str.html 参照

(注2)酒井の http://www.newsweekjapan/column/sakai/2013/07/post-699.php 中にある

http://tamarod.com/index.php?page=english 参照。英文だが簡潔な文章で判りやすい

(注3 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130708-00010002-wordleaf-m_est 参照。酒井は上記の文章中で「今年4月までの1年間に小麦が28%・・・」といった数字をあげているが、値上がりが大きい食料品の事例かもしれない

(注4http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-705b.html 参照

(注5http://www.nhk.or.jp/kaisetsu\blog/800/157691.html 参照

(注6)上記(注4)の文章中の(注5)で、エジプトの広場でまかれた印刷物に「警察と軍隊をエジプト民衆の側に引きずり込め」という主張があったことを紹介した。それがどこまで実行されたかは判らない

(注7)その内容は、とりあえず http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-cff8.html 参照

2013年6月 6日 (木)

「国民運動としての反原発運動」に、”まともな批判”を試みる

反原発運動における「国民」ということの問題について、首都圏反原発連合(反原連)の野間易通と、外国人への差別を許すな・川崎連絡会議の朴鐘碩とのあいだで議論があった(注1)。「日印間原子力民間交渉の即時停止を求める声明」へのネット署名運動が行われているが、そのURL(注2)に下図のようなイラストを見て、朴は違和感を覚えたのだ。「国際連帯で原発を世界からなくそうとする平和人権運動体が、アジアへの侵略戦争で利用し国民国家を支える日の丸を登場させる必要があるのか」、と。「反原発運動で使われる『国民』は日本人を意味するのでしょうか?」という朴の問いに、野間は敏感に反応している。「こういう論理も何もないいちゃもんはそろそろやめにしてほしい」、と。そして断言する。「反原発運動における『国民』への言及について批判や疑問は常に提起されているけど、まともな批判はついぞ見たことがない。ほとんどが『国民』という言葉へのアレルギーを表明したものに過ぎない」、と。

野間が言う「ついぞ見たことがない」というのが本当かどうか、「まともな批判」がどんなものとして考えられているかは、知らない。だが、首相官邸前の抗議行動で「国民運動としての反原発運動」がめざされ、可視化され、人々に「国民」というイデオロギーをチャージしていることは確かだ。国民および国民運動について、まともに批判を試みる必要があるだろう。

▲図はPDF版を参照 「130606.pdf」をダウンロード

 

 

●フランス革命が作りだした、ブルジョア国家と国民の関係

 野間は、Twitterで「国民主権の民主主義国家が政策として行ったこと(原発推進―筆者)に主権者の『国民』が責任を負うのは当たり前」、と述べている。それはかなり教科書的で、国民主権、民主主義国家という概念を無批判に前提し、国民をひとかたまりの「主権者」として集合的かつ実体的に捉えている。だがそれは、国家と国民との関係において、かつ歴史的に見てみれば、イデオロギーに過ぎないことがわかる。

 フランス革命について山崎文夫はいう。「1789年のフランス革命は、国家と個人以外の存在を認めなかった。あらゆる集団は、一般意思(=国家意思―筆者)の形成を妨げ、国家中国家をなすものとして禁止された」(注3)、と。同年の「人および市民の権利宣言」は自由・平等・博愛を標榜したが、それは独立して商品生産を行うブルジョア達のものだった。一方、それは同時に結社の自由を否認している。91年には同職組合(ギルド)を廃止、また労働者の団結を禁止した。ストライキが刑事罰から解放(ストライキの自由)されたのは1864年、同じく組合結成が解放(労働組合の自由)されたのは84年、ストライキの権利(解雇されない)が確立したのは1946年になってからだ。1848年の革命や71年のパリコミューンの闘い、そして第2次大戦後の労組の組織拡大がなければ、それは達成されなかった。こうして国家―国民関係は、ブルジョアジーを支配階級として組織し、後には福祉と排外主義のイデオロギーによる労働者の「国民的統合」を試みるなかで形成されてきたのである。

 そして新自由主義が世界をおおう今日、歴史は一回りしてフランス革命当初の状況が再現されている。福祉は切り捨てられ、労働者は正社員と膨大な非正規労働者に分断され、排外主義の扇動が横行している。闘う労働者には刑事弾圧のみならず、裁判所が団結権・団交権・争議権を抑圧する間接強制(注4)の攻撃が多発している。析出しているのは、国家によって「国民」として束ねられる、バラバラにされた個人だ。そして不思議なことは、この状況が首相官邸前の抗議行動に反映されているというよりは、むしろあるべき姿として意図して推進されている点である。組合や団体の旗の禁止、「再稼働反対!」のシングル・イッシュー、スタッフと機動隊との協調、機動隊指揮車からの解散の指示――等々だ。国家が束ねるバラバラにされた個人と、首相官邸前の運動が組織されるあり方。この2つのピラミッドは相似形をなし、向き合い、または重なって現前しているように思える。

 

●首相官邸前という「器」と、スペクタクルをめざす「実務集団」

野間には『金曜官邸前抗議―デモの声が政治を変える』(河出書房新社)という著書がある。そこにまとまった国家論があるわけではない。だが抗議行動の位置づけや参加者への見方のなかに、国家―国民関係への考えをみてとることができる。

金曜行動が成功した「動員の革命」について、野間の把握はかなり的確だ。野間は津田大介の発言を引用する。「官邸前デモで新しかったと思うのは、毎週決まった時間にやったことです」(P52)。それは首相官邸前という「場所」を確保した点では、タハリール広場、プエルタ・デル・ソル広場、ウォール街、そして経産省前テントひろばの流れを引き継いでいる。一方、ウォール街や経産省前の運動が永続的なOccupyをめざしたのに対し、金曜日の6時から8時という枠を自ら設けたことが違う。また、タハリール広場などが人々の討議の場や出撃拠点となっていたのに対し、金曜行動は首相官邸に向けた単一のベクトルをもつ抗議と位置付けられた。この点では、歌の禁止について野間が述べている。「(官邸前では)自己表現や個性の表出よりも、抗議の表現であることが重視された。・・・この場が参加者に向けて語りかける集会の場ではない」(P64)、と。すなわち参加者は双方向的な関係は拒否され、ひたすら「あいつらの耳に原発をやめろ、再稼働をやめろということを響かせる」(P55)マシーンとして考えられていたことになる。そこで反原連スタッフはマシーンをあつかう「完全な実務集団」(P18)であり、めざすものはマスコミを引きつける「スペクタクル」だったのではないか。野間は言う。「629日のようなスペクタクルにならなければ、それは扱われることはない。政治ではなく社会的事件としてしか、デモや抗議行動は取り上げられない」(P110)、と。反原発運動が高揚するためには、「政治」であってはならなかったのだ。

 大衆運動にたいするこのような考え方は、国家に対するスタンスと対になっている。野間の言を聞こう。「首都圏反原発運動は・・・現場の警察を『闘うべき権力』とは見なしていなかった。闘うべき相手は、警察の阻止線の向こう側にいる権力の実体そのもの、すなわち首相と内閣、そして彼らの原子力政策を担う官僚や原子力産業その他からなる『原子力ムラ』だった」(P133)。首相官邸前に立ちはだかる機動隊や警備車両は「柵のようなもの」、「おだて、抱き込み、うまくかわす対象」(同)、というのである。これは、原発再稼働をめざす首相官邸と政策的に対向する権力構造を反映しているだけで、国家に対する特段の認識が表明されているわけではない。ただ特徴的なのは、機動隊を「柵」として無視したがるスタンスがあるだけだ。

 

●日の丸は、「民主主義の主体たる国民」のシンボル?

積極的な主張は日の丸の問題に関して表明されている。野間は、「日の丸の意味を『侵略の象徴』と一意的に解釈可能なのは・・・、ある特定の文脈においてのみに過ぎない」(P173)とする。過去の戦争にまつわる歴史認識の問題や、日本の国粋主義を論じるような文脈のことだ。そして「アプリオリにその『文脈』のなかに・・・安住していた」(同)と、市民運動を批判する。文脈は様々だと言うのである。

いわく、①それ自体は「国旗」、②日の丸は特定の政治的テーマに関連しない「シンボル」、③掲げることは「社会習慣」、④福島を返せという叫びに代表される「ナショナリズム/パトリオティズム」という反原発運動の性格を表す――等々だ。はては、⑤「民主主義の象徴」にまでなってしまう。「国旗は政権や国家そのもののシンボルとしてではなく、民主主義の主体たる人々、本来の意味での『国民(nation)』のシンボルとしてつかわれている」(P176)、と。このような言説は全体的には本質を見失う相対主義であり、根本的には国家―国民の関係を民主主義的なものとしてくくっている。反原連は日の丸などのシンボルに「特定の解釈を押しつけるべきではないと考えていた」(P172)そうだ。だが実際は、まさに国家の下にバラバラにされた国民を統合し、それを象徴=可視化する点に日の丸の本質と機能を認めているのである。ここで「国民」概念は、フランス革命時のブルジョアに近い。

野間は言う。「日の丸は、民主主義を体現しない国家に対し、民主主義を実行せよと求めるなかで、あるべき民主主義の象徴として掲げられている。・・・戦後民主主義の国旗として使われた時代の方が(全体主義や国粋主義の時代より―筆者)はるかに長いのだから、こういう用法が出てくるのは当然なのだ」(P175~6)、と。だが、68年にわたって戦後民主主義の時代があったというなら、ほぼそれに重なり、「民主主義を体現しない国家」によって日の丸が押しつけられる歴史があった。日の丸が「国旗」だというなら、大きな反対運動のなかで「国旗・国歌法」が強行採決された1999年以来のことにすぎない。結局、野間の著書のなかには相対主義と戦後民主主義の無批判な称揚があるだけで、国家についての「まともな批判」はなかった。従って国民についても同様の認識が反映することになる。

 

●人々の熱い思いを閉じ込める、シングル・イッシュ―の打破を

 国民運動に関しては、もはや多くを語る必要がないかもしれない。ただ国民運動といわれる運動の歴史をひとつだけ振り返っておこう。1954年の第五福竜丸事件を契機に、最終的には3,259万筆(注5)にのぼった原水禁署名運動が始まった。「東亜解放」を唱えて教職追放された安井郁が呼びかけ、婦人運動の興隆を背景にシングル・イッシューの運動として展開された。山本昭宏はこの運動の性格について述べている。「あくまで原水爆実験に反対か否かのシングル・イッシューに焦点を当てたこの署名運動は、政治性を脱色し、敢えて大きな器を準備するにとどまった」(注6P122)、と。安井は総評など「左翼団体」とその「政治運動の色彩」を忌避し、「広島・長崎への原爆被害の問題を含まず、『死の灰』の汚染による健康被害の問題を基盤にしたからこそ、運動は急速に広まった」(P122~4)。だがそれと並行し、原子力の「平和利用」という世論が政府―マスコミ―科学者たちの手で醸成されていく。シングル・イッシューの、人々が「被害者」として固定された運動は、そのなかで核の軍事的―「平和的」利用への批判と闘いを深めることができなかった。そして容易に、経済成長と科学への期待に回収されていったのである。

 もちろん官邸前につめかける人々の思いは熱い。再稼働阻止の叫びは、1255日の全原発の停止によって、原発50年の歴史もひっくり返すことができるという自信があふれだした。たとえ大飯原発が再稼働したとしても、いちど止まったものは再び止めることができるという確信に満ちていた。それゆえこの運動を「国民運動」という枠に押しとどめてはならないのである。表現と討論を全面的に解放し、官邸前という「場所」から様々な運動へと展開させ、原発再稼働をねらう資本や国家への全面的な批判に差し向けることが大切なのだ。野間は、大飯原発再稼働時の30時間をこえるゲート封鎖闘争に関し、反原連元メンバーの発言を引用している。「あれは現地だったからこそ意味があった。官邸前はそういうやり方とはまた別」(P135)、という発言だ。野間はそれを、「社会運動恐怖症、あるいは政治的無関心、暴力への過剰な忌避」という「日本の実情や政情」(P136)なるもので合理化する。それは一種の大衆蔑視につながりかねない。また戦術選択の問題は別にして、官邸前と原発現地での闘いを分断することはナンセンスだ。62日の国会前大行動の集会では、半ばちかくが再稼働を迎え撃つ原発現地の方々の発言だった。それをスペクタクルとして消費するだけであってはならない。

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(注1)両氏の見解は、Blog「薔薇、または陽だまりの猫」の2013-05-25で見ることができる。朴は「日立就職差別事件」の当該だ。74年に横浜地裁で、土地調査事業や朝鮮人強制連行の事実、社会的差別の中で「通名」を使わざるをえない状況の認定を含む全面勝利判決をかちとり、判決はそのまま確定した

(注2http://www.dianuke.org.stop-india-japan-nuclear-agreement-an-international-appeal/

(注3)「フランスにおけるストライキ権の主体」http://ci.nii.ac.jp/naid/120002809069

(注4)労働法にもとづく正当行為を、損害賠償という民事的手法で「間接」的に自制「強制」する弾圧手法

(注51954年の人口=8,824万人に対し約37%にあたる

(注6)『核エネルギー言説の戦後史1945-1960』(人文書院)P122。なおその他、ピープルズ・プラン研究所のCD-R版「初期原水爆禁止運動聞き取りプロジェクト記録集成」、藤原修『原水爆禁止運動の成立』(明治学院国際平和研究所)などがある

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